ネパール通信

ネパールでのボランティア活動報告を通して、生きた現地情報をお伝えします。

ここに定着して・・・13年

6月28日(火)天気:星の見えない夜 気温:26℃ 湿度70%


今回は、活動をはじめて丁度いい区切りであり、過去13年間を振り返ってみた。



《はじめに》

長い間(現役時代)の望みでもあった、ネパール移住を決断して13年はまるで「嵐」のように過ぎ去って行った。
ここに来た当初、何処から手を付けたらいいのかも分からず、漠然と村々を回っていたが、目的ははっきりしていた。

「山岳民族」の子ども達、特に小学生を対象に「学校へ通ってもらう」
説得に回ろうと考えたのは、過去30年間に体験したネパールの人々の考え方から、
必ず学校へ通って居ない子供たちが居ると考え村々を回った。

しかし、単に回っているだけでは学校へ通っているか居ないかは見えない。
やはり、村長に直接話を聞く事が先決であると考え、どうすれば何処かの村へ紹介してもらえるのかを考えていた。



《アシスタントの確保とスリーサルソティー小中学校》2004年12月~2009年3月

そんな時、初めて行ったラムチェ村で「ミナ」に出会い、彼女の知識に驚いた。
彼女は、この近郊の村々を回って「国勢調査」のような政府の仕事を学校から推薦されてやっていたのである。

正に今の私の欲しい情報を、彼女が全て握っていたのである。
遥か遠くの村の様子から、村の貧困度合いまで詳しく知っていた。
私は、下手な英語でこの子にアシスタントになって欲しいとお願いし、ご両親にもお願いし了解を得たが、
何せネパール語とタマン語と英語しか話せない。

そんな折、私がラムチェ村の支援活動に来ている時、次回来る時はカトマンドウの家が留守になり、
心配であると話した(下手な英語で)のを聞いていた「ミナ」が「私が留守番に行って来る」と言って、
私がラムチェ村に出発する前にカトマンドウの家に来てくれた。

初めてのカトマンドウでバスも初めてで、私の家の住所も名詞に書かれた地名を頼りに聞きながら尋ねて来たそうである。
凄い!
友人の女の子と二人で、バスに「酔いながら」必死で辿り着いた時には
生きた感じはなく「へろへろ」状態であった事を今でも覚えている。

しかし英語しか二人の会話は出来ないため、四苦八苦の会話であった。
やはり、彼女に「日本語」を覚えてもらおうと考え、ミナの相談したら即OKとの事。

この日から、教える側も教えられるミナも必死であった。
この間、(日本語を覚える間)スリーサルソティーの学校は休み、日本語と私のアシスタントの特訓であった。(約10ヶ月)
そのため彼女は通常の年齢よりも合計で2年ほど遅れて10年生を終えた事になる。

しかし、日本語の上達は早く10ヶ月後には通常の生活用語は殆ど話せるようになっていたのである。
(リスニング&スピーキングとひらがなカタカナを習得)

こうして一時元のスリーサルソティーの学校に戻し、10年生が終了するとネパールの国家試験であるSLCの受験準備である。
バラビシに「編み物教室」を開設しラムチェ村の女性に編み物を覚えていただき、
少しでも現金収入になればと考え、夜はミナの住居に昼間は教室にと利用して実施した。

勿論、この時の編み物教師も二人の女性を半年掛けて養成し、その間の宿と食事は我が家で一緒の生活であった。
一人の女性は子どもを抱えての研修であったが、お陰でお母さんまで育児に付いて来て、
一挙に4人の女性の面倒を見ることになった。

一通り、編み物研修が終るのと編み物教室の開講とを調整しながら進めて
やっとSLC受験準備の日程と開校式を一緒にする事が出来た。
この時期にカトマンドウの借家からサンガに移転を決断。
忙しい毎日であった。

こうした忙しい中でも、ラムチェ村への往復は欠かさず続けていて隔週の間隔で通っていた。
でないと、子どもがたちが学校へ通うのを止めてしまうからである。

ラムチェ村での3年半ほどの活動中、75人ほどの子供たちに学校へ通ってもらう事ができた。
学用品の他に、試験費用や普段着などの配布も欠かさず行った。
学校の英語の教師も3~4ヶ月間ほど派遣、村のクリニックに住み学校へ通ってもらった。
名前は森本雄志君と言って日本人のご両親がアメリカに住み彼が生まれ、アジアを回って居た時に私に会った。

こうして3年半ほどの時は瞬く間に過ぎ、ラムチェ村を去る時が来た。
当初から一つの村の学校で、3~4年を支援活動子ども達が「学校に定着」したころ、次の学校へ移ろうと考えていたのである。

校長先生や一般の先生にも「残って欲しい旨」伝えられたが、ここだけが貧しい村ではないと考え、後ろ髪を引かれる思いで去る。



トゥロパカルの小学校》2009年4月~2012年3月

この時、既に次の学校から支援要請があり、ミナに確認したら「お父さん、そこの村は私のおじさんの奥さんの村だよ」と言う。
村の名前はトゥロパカル村と言って、エベレスト街道から南へ2時間ばかり下った所にある小さな村であった。
ここでも、70人ほどの子供たちに学校へ通っていただき、今度は日本語の教師を派遣。
日本の女性で教科書を作る仕事をされている方であった。
3ヶ月を校長先生の家から学校へ通って下さった。

雨期の最中に移動して赴任?、ろくな説明もなしに現地に行って下さった優しい女性で、
村人との会話も練習され日常会話が出来るまでになったおられた。
さらに、この村で編み物を教えて製品を買い取りたいと言う、日本の女性(あやさん)が現れてびっくり。

話を聞くと、カトマンドウなどで発注するとオリジナルの製品が直ぐにコピーされてしまい、
オリジナリティーが無くなってしまうそうである。

私にとっても村人にとっても「ありがたい」事であった。
彼女たちは、約2週間ほど村に滞在して女性たちに特訓し材料や編み棒・鈎針を置いていき
1ヵ月後に来ることを約束し去っていった。

それが、現在までも続いている。(6年以上である)
この村でも3年と言う時間はあっと言う間に過ぎ去り、去る時が来たが仕事は出来たのかと言うと、
大きな仕事は無く、ただトイレの改修と水ラインの工事を行ったに過ぎなかった。



《メールダラの小学校》2012年4月~2016年の現在に至る

この村では学校の校舎を宿泊場所として、多くの日本人に来て頂き運動会や腹話術さらには
学生さんたちによる「国勢調査」も実施してきた。
子どもの数も少なくて42人と今までで一番小さな学校である。

そんな中で学校の修復をして下さいと習志野の女性から依頼され、石積みの校舎をセメントで修復し、
ペイントや絵などを施し完成の式典を待って居た時に「地震発生」である。

山の学校の校庭は狭く、危険なためベルギーの仲間がフェンスを習志野の女性が、
ゲートとトイレ水道と校舎の修復をして下さったが、それが一瞬にして消え去った。

若い村長は少し手直しすれば使える校舎を「全て撤去」してしまい、校舎を修復していた我々に何の連絡もしないまま、
更地になってしまった。

この時の村長の考えは、建物があると新たな支援が受けられないから撤去したと言う。
誰が新たな支援者なのか??

人間の無力感をこの時ほど感じたことは無かった。

現在は、ミナの兄弟5人と弟のお嫁さんと息子(竜馬)も一緒に生活している。
今考えて見ると、最初の3年間ほど苦しい時は無かったように思えてならない。

今は、振り出しに戻りラムチェ村の復興支援と子どもの学費支援に没頭。




今回の「ネパール通信」はアウトルックメールにして添付写真が出来ない?
操作ミス?
現在悪戦苦闘中!、
何方か教えていただける方が居ないでしょうか?
文章だけでご辛抱願いたい。










井戸の外からとネパールの習慣は当面割愛させていただきたい。






では次回「ネパール通信」まで。



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  1. 2016/07/05(火) 14:52:14|
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プロフィール

筋田 雅則

Author:筋田 雅則
20代半ば、岐阜県山岳連盟の
カシミール遠征隊へ招聘
その帰り、初めてネパールへ立ち寄る。

その後、ネパールの同宿の山仲間と、
「学校づくり」を開始し約30建設
ネパール支援を何十年も繰り返し、
定年退職後、ネパールへ移住。

現在はカトマンドゥ在住、
ラムチェ村を中心にボランティア活動を行う。

ブログでは、ネパールでの
ボランティア活動報告を通して
生きた現地情報をお伝えしていきます。

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