ネパール通信

ネパールでのボランティア活動報告を通して、生きた現地情報をお伝えします。

ネパール通信 「ある男性のネパール体験」


ネパール通信 「ある男性のネパール体験」


12月29日(木)天気:晴れ


今回は、今年最後の通信となり、来年に向けての通信の準備をしていたが、
どうしても年内に配信したいと考え「年末ぎりぎり」の配信になった事をお詫びしたい。

さて、ある男性だが、離婚の傷心を抱きながらネパールに来られ
「新たな希望を」持って帰国し、日夜活動されている姿に感銘を受け、みなさんに是非ご紹介したく配信した。



<私が経験したネパールの旅>


私は、とくに明確な目的をもってネパールに行ったわけではありません。
ネパールでのスケジュールも立てずに、
ただ筋田さんに会いに行くということだけしか決めていませんでした。

その筋田さんのことも、テレビ出演された録画を見たり、
筋田さんのブログを読んだことがあるだけで、それ以上のことはわかりませんでした。
それでも、私が筋田さんに会うことに何の不安も持たなかったわけは、
筋田さんからのメールの文末に「松下さん、待っていますよ」という一文が、いつもあったからです。


私は、この一文がとてもうれしかったのです。
「私が来ることを待ってくれている人がネパールにいる・・・」
私がネパールに行く理由としては、そのことだけで十分でした。


去年の2月に辛い離婚を経験した私は、すっかり生きる気力をなくしてしまい、
こんなに苦しいなら死んだほうがマシだと、
毎日のように考えながらも死ぬことができずに、ただ生きているだけでした。
自分にふりかかった苦しみを受容できずに、苦しみにとらわれた状態から抜け出すことがきなくなっていました。
頭の中では、早く事実を受け入れて努力していくしかないことは分かっていても、
それがなかなかできずに、毎日のように悲観的に生きていました。


離婚から1年が過ぎても、自分を変えることができなかった私は、
途上国で暮らす人たちの生き様に触れることで、
自分を変えるきっかけにしたいと考えるようになりました。

なぜなら、途上国で暮らす人たちは、貧しさや差別や厳しい環境など、
自分の力ではどうすることもできない困難の中でも、
その運命を受け入れて、力強く生きている人たちだと想像していたからです。

そのような人たちの生き様に触れることで、
私も自分の運命を受け入れて前に進めるようになれるのではないか、
と考えたことが、今回のネパールとインドの旅を決めた理由です。


観光に興味のない私は、筋田さんが支援する小学校の子供たちに会うことを一番の楽しみにしていました。
そんな私の気持ちを察してくださっていたのか、
ラムチェ村まで子供服を運ぶという計画を筋田さんは用意してくれていました。


ラムチェ村では、村長の家に3泊も泊めていただき、村の人たちに歓迎していただきました。
子供服を届けるため一日中歩いた山道も、体力的には大変でしたが、
素晴らしい山の景色と途中で出会った子供たちに癒され、とても素敵な時間を過ごしました。



ラムチェ村では、様々な楽しい経験をしましたが、
その中でも私にとって最も楽しかった経験は、村の女性たちと一緒に農作業をしたことです。

言葉を話せない私は、村人と一緒に作業をすることで、村人との一体感を得たいと考えました。

だから村人に負けないように一生懸命に農作業に取り組んだわけですが、
その作業の休憩中に見ることができた、女性たちの笑顔や子供たちの笑顔が
私にとっては最高の喜びでしたし、ネパールの旅の中で最も楽しかった経験になりました。
いまでも、その時の様子を思い出すと、嬉しくなります。



私がネパールに滞在した12日間で、銀杏旅館を拠点に、
ラムチェ村、カトマンズ、ポカラなど、様々なところに連れて行っていただきました。
ネパールのことを何も知らない私は、ネパール語はもちろん、英語も話せません。
そんな私が、今回のネパールの旅が最高のものとなったのは、すべて筋田さんのお陰です。


私はラムチェ村で、普通の観光客では体験できない貴重な体験を数多くしましたが、
そのすべては筋田さんの人徳のお陰であることは言うまでもありません。

筋田さんのこれまでの活動が現地の人々の役に立っているからこそ、
筋田さんと一緒に訪れた私も歓迎していただけました。



ネパールを筋田さんと旅することで、ネパールを知ることができたことと同時に、
筋田さんの生き様を知ることができました。

ポカラのホテルでは同じ部屋に泊まり、筋田さんから聞く話は、
すべてがドラマティックで感動的なものばかりで、
私は夢中になって筋田さんに質問をして多くを聞き出そうとしました。

そこで知り得た筋田さんの生き様に、私は心から尊敬し憧れを抱きました。


ネパールで、たった12日間でしたが、私にとっては本当に最高の旅になりました。
筋田さんにお会いできたから、そして池田さんがいてくれたから、
こんな私にでも最高の旅を経験することができたのだと、いま振り返っても感じます。


お二人と別れてから、インド行きに飛行機の中で、なぜだか涙が止まりませんでした。
恥ずかしげもなく、訳も分からずに大泣きしていました。
とにかく皆さんに対する感謝の気持ちと、
苦しくても諦めずに生きてきた自分をねぎらう気持ちが溢れてきて、涙が止まりませんでした。

「また必ずネパールに来るから。今とはもっと違う自分で・・・」と、そんなことを、飛行機の中で考えました。



日本に帰ってから、筋田さんに感化された私は、さっそく障害者支援の仕事に就きました。
身体や立場の弱い人たちに対して、自分に何かできることがあるのか、どんな学びや感動があるのか、
そんなことを考えながら、今でも夜学に通いながらも、障害者支援の仕事を続けています。

そんな生活の中で、身に染みて感じたことがあります。

それは「自分が強くなければ、誰も救うこともできない」という筋田さんの言葉です。

夢や理想を高く掲げても、日々の努力で積み重ねた「力」がなければ、
その想いは実現しないことを、最近では身に染みて感じることが多くなりました。


地道に諦めずに努力するしかない。

どんな困難の中にあっても、すべてを受け入れながら努力を続け、
自分が成長することでしか問題は解決しないと、この歳になって痛感しています。


12月ですでに45歳になった私ですが、変わるときに年齢は関係ないことを筋田さんの生き様で知りました。
これからも、自分の理想とする理学療法士、鍼灸師、そして一人の大人として、成し遂げたい目標に向かって、
過去に恥じることなく、前向きに生きて行きたいと、今は力強く思えます。



筋田さん、また必ずお会いしたいです。

その時は、また大きな夢を聞かせてください。
私も、筋田さんに負けないくらい、でっかい夢を持って、
笑顔でお会いできることを、今から楽しみにしております。


本当にありがとうございました。

                          松下





添付写真は緑の多い夏に撮影したラムチェ村の「ビッグストーン」画像


IMG_1790.jpg



井戸の外からとネパールの習慣は当面割愛させていただきたい。



では次回「ネパール通信」まで


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「ネパール通信」ネパール支援の多様性


「ネパール通信」ネパール支援の多様性

12月9日(金)天気:快晴 気温:18℃ 湿度:45%




今回は、ここネパールにおける「支援のあり方」についてお伝えすると同時に
ある若き支援者に的を絞って、具体的な支援のあり方をお伝えしたい。


はじめに、支援のあり方には「多様性」があり、
支援をする方の「勝手」的な要素が多分にある事も認識しなければならない。
ヨーロッパの方々の多くは、団体で来てはいるが極めて個人的な支援方法で、
一人の支援者が一人の孤児のスポンサーとなり、
毎年通ってきては孤児院と自分の担当する孤児に対し支援活動を実施している。



中には、団体で孤児院を経営して、そこへのボランティアを母国で募集し出かけて来る。
そこでは、母国で販売するワイン袋(ワインを入れて贈り物とする袋)や
施設内でミシンを使い小物を作成して母国へ運び、販売してその利益を施設運営に使っている団体もある。



基本的にネパール人の経営している孤児院では「ビジネス」として営業している施設が殆どで、
そうした施設に日本から「ボランティアをやってきました」的な「証明書」を発行してくれる施設が数多く存在するのも、
基本的に「ビジネス」だからボランティアの募集目的に行われている実態が多い。



日本人の若い人(特に学生さん)などは、学校で「単位」が貰えるのか知らないが
その「ボランティアをやってきました」と言う証明書が欲しいために、
10日間を孤児院で無償労働して「感謝状」を手にして得意顔で帰国される方々も残念だが多い。


一方、多くの方が僅かな日程(1週間以内)で多くの施設や学校を廻り、
日本から集めて来た支援物資を寄付されている実態も見逃せない。


こうした団体は日本において、幅広い宣伝活動で支援物資や寄付金を集められて、
手当たり次第に配って行く方々であり、何年間も奥深く村人と関わって行く方法ではない。


これらの方々は「もし震災が無かったら」ここネパールに来てもらえたのだろうか?
それは無理なことであろう。
しかし、形は違うがこうした方々も決して否定できない。

無くてはならない!

例え短期間であっても、多くのこうした団体に来てもらう事で、
政府の支援の手が届かない山奥の山村に行き渡ればいいのである。


ここで「ボランティアの形」など不要なのである。


まだ、たった2年しか経過していないネパールの被災地では、政府の援助は全く無く、
こうした短期間のボランティアの皆さんに支えられて山村の村人たちは生活出来ている現実は見逃す事は出来ない!
ありがたい事である。


長年ネパールで支援活動をやっている私たちにしてみれば、素晴らしく大きな「力」で、
スコップとシャベルローダーの違いほどであると言っても過言ではない。


これからは、どしどし活動の輪を広げていただき、「日本とネパールの大きな架け橋」とならん事を祈るばかりである。



さて、こうしたなかにありながら一人の学生さんが、村で生活する「少女の障害者」を救おうを立ち上がった。

その障害を持つ少女は14才で、後天的「聾唖者」である。
つまり、生まれて何年か後に事故で「難聴」になり、
言葉を覚える前に難聴になったために、大きくなった今でも「会話」が出来ないのである。


そこでネパールの「耳鼻科」に行き、補聴器の使用を薦められ、
数万円もする補聴器を彼女に使ってもらう事として、3ヶ月!
瞬く間に言葉を覚え会話に参加出来るような状況にまで回復した。



しかし、本人は今までの静かな生活から「雑音?」の多い「今の生活」が「嫌?」なのか、なかなか補聴器をしてくれない。



先日もテレビを見ていて、テレビの音が出ていない事に気付き、「補聴器は?」と聞くと、
指で置いてある場所を指して「あそこにある」と言うような仕草で答えた。

テレビは彼女にとっては、唯一の「娯楽」であり、サイレントで見ている画面は夢のような世界なのであろう。


でも、本当は彼女にとって補聴器の無い世界では「言葉を覚えられない」ため、
例えテレビでも補聴器を付けて声を聞きながらテレビを見るよう指導している毎日である。

それが、彼女にとっての将来を少しでも明るくする教育だろうと考えている。


これから、聾唖学校の調査に行き具体的な指導が出来ないかを調べて実施に移す方向で検討しているところでもある。
何れにしても、先の長い支援活動になる事は間違いない。


若き支援者に心から激励のメッセージになればと、みなさんにお伝えした次第である。





添付写真は「若き支援者:あやさん」とラムチェ村のモデルハウス建設現場である。



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井戸の外からとネパールの習慣は当面割愛させていただきたい。





では次回「ネパール通信」まで



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プロフィール

筋田 雅則

Author:筋田 雅則
20代半ば、岐阜県山岳連盟の
カシミール遠征隊へ招聘
その帰り、初めてネパールへ立ち寄る。

その後、ネパールの同宿の山仲間と、
「学校づくり」を開始し約30建設
ネパール支援を何十年も繰り返し、
定年退職後、ネパールへ移住。

現在はカトマンドゥ在住、
ラムチェ村を中心にボランティア活動を行う。

ブログでは、ネパールでの
ボランティア活動報告を通して
生きた現地情報をお伝えしていきます。

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