ネパール通信

ネパールでのボランティア活動報告を通して、生きた現地情報をお伝えします。

暑中お見舞い申し上げます。

記録的な猛暑にあえぐ日本列島!

ここネパールでは連日に雨に気温も「ぐっと」下がり、22℃と極めて過ごしやすい。
銀杏旅館の屋上に降った「雨」は全て大きな水タンクに収まり、水不足も何のそのである。

今回の「暑中お見舞い」がネパールから送る最後の「ネパール通信」である。

今朝の出来事である「バスの事故」は私がカトマンドウへ買出しに出かけた時に起こった。
添付写真のように前輪左側の車輪が側溝へはまってしまい、急遽バスを乗り換えなければならなくなった。
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勿論料金は事故発生場所までの料金を支払い(10ルピー)次のバスに乗ってカトマンドウへ向かった。


添付は世界の名峰である「ダウラギリ」である。
雪煙をあげるダウ






井戸の外からとネパールの習慣は当面割愛させていただきたい。






では次回「ネパール通信」まで。



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  1. 2016/07/05(火) 15:01:32|
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ここに定着して・・・13年

6月28日(火)天気:星の見えない夜 気温:26℃ 湿度70%


今回は、活動をはじめて丁度いい区切りであり、過去13年間を振り返ってみた。



《はじめに》

長い間(現役時代)の望みでもあった、ネパール移住を決断して13年はまるで「嵐」のように過ぎ去って行った。
ここに来た当初、何処から手を付けたらいいのかも分からず、漠然と村々を回っていたが、目的ははっきりしていた。

「山岳民族」の子ども達、特に小学生を対象に「学校へ通ってもらう」
説得に回ろうと考えたのは、過去30年間に体験したネパールの人々の考え方から、
必ず学校へ通って居ない子供たちが居ると考え村々を回った。

しかし、単に回っているだけでは学校へ通っているか居ないかは見えない。
やはり、村長に直接話を聞く事が先決であると考え、どうすれば何処かの村へ紹介してもらえるのかを考えていた。



《アシスタントの確保とスリーサルソティー小中学校》2004年12月~2009年3月

そんな時、初めて行ったラムチェ村で「ミナ」に出会い、彼女の知識に驚いた。
彼女は、この近郊の村々を回って「国勢調査」のような政府の仕事を学校から推薦されてやっていたのである。

正に今の私の欲しい情報を、彼女が全て握っていたのである。
遥か遠くの村の様子から、村の貧困度合いまで詳しく知っていた。
私は、下手な英語でこの子にアシスタントになって欲しいとお願いし、ご両親にもお願いし了解を得たが、
何せネパール語とタマン語と英語しか話せない。

そんな折、私がラムチェ村の支援活動に来ている時、次回来る時はカトマンドウの家が留守になり、
心配であると話した(下手な英語で)のを聞いていた「ミナ」が「私が留守番に行って来る」と言って、
私がラムチェ村に出発する前にカトマンドウの家に来てくれた。

初めてのカトマンドウでバスも初めてで、私の家の住所も名詞に書かれた地名を頼りに聞きながら尋ねて来たそうである。
凄い!
友人の女の子と二人で、バスに「酔いながら」必死で辿り着いた時には
生きた感じはなく「へろへろ」状態であった事を今でも覚えている。

しかし英語しか二人の会話は出来ないため、四苦八苦の会話であった。
やはり、彼女に「日本語」を覚えてもらおうと考え、ミナの相談したら即OKとの事。

この日から、教える側も教えられるミナも必死であった。
この間、(日本語を覚える間)スリーサルソティーの学校は休み、日本語と私のアシスタントの特訓であった。(約10ヶ月)
そのため彼女は通常の年齢よりも合計で2年ほど遅れて10年生を終えた事になる。

しかし、日本語の上達は早く10ヶ月後には通常の生活用語は殆ど話せるようになっていたのである。
(リスニング&スピーキングとひらがなカタカナを習得)

こうして一時元のスリーサルソティーの学校に戻し、10年生が終了するとネパールの国家試験であるSLCの受験準備である。
バラビシに「編み物教室」を開設しラムチェ村の女性に編み物を覚えていただき、
少しでも現金収入になればと考え、夜はミナの住居に昼間は教室にと利用して実施した。

勿論、この時の編み物教師も二人の女性を半年掛けて養成し、その間の宿と食事は我が家で一緒の生活であった。
一人の女性は子どもを抱えての研修であったが、お陰でお母さんまで育児に付いて来て、
一挙に4人の女性の面倒を見ることになった。

一通り、編み物研修が終るのと編み物教室の開講とを調整しながら進めて
やっとSLC受験準備の日程と開校式を一緒にする事が出来た。
この時期にカトマンドウの借家からサンガに移転を決断。
忙しい毎日であった。

こうした忙しい中でも、ラムチェ村への往復は欠かさず続けていて隔週の間隔で通っていた。
でないと、子どもがたちが学校へ通うのを止めてしまうからである。

ラムチェ村での3年半ほどの活動中、75人ほどの子供たちに学校へ通ってもらう事ができた。
学用品の他に、試験費用や普段着などの配布も欠かさず行った。
学校の英語の教師も3~4ヶ月間ほど派遣、村のクリニックに住み学校へ通ってもらった。
名前は森本雄志君と言って日本人のご両親がアメリカに住み彼が生まれ、アジアを回って居た時に私に会った。

こうして3年半ほどの時は瞬く間に過ぎ、ラムチェ村を去る時が来た。
当初から一つの村の学校で、3~4年を支援活動子ども達が「学校に定着」したころ、次の学校へ移ろうと考えていたのである。

校長先生や一般の先生にも「残って欲しい旨」伝えられたが、ここだけが貧しい村ではないと考え、後ろ髪を引かれる思いで去る。



トゥロパカルの小学校》2009年4月~2012年3月

この時、既に次の学校から支援要請があり、ミナに確認したら「お父さん、そこの村は私のおじさんの奥さんの村だよ」と言う。
村の名前はトゥロパカル村と言って、エベレスト街道から南へ2時間ばかり下った所にある小さな村であった。
ここでも、70人ほどの子供たちに学校へ通っていただき、今度は日本語の教師を派遣。
日本の女性で教科書を作る仕事をされている方であった。
3ヶ月を校長先生の家から学校へ通って下さった。

雨期の最中に移動して赴任?、ろくな説明もなしに現地に行って下さった優しい女性で、
村人との会話も練習され日常会話が出来るまでになったおられた。
さらに、この村で編み物を教えて製品を買い取りたいと言う、日本の女性(あやさん)が現れてびっくり。

話を聞くと、カトマンドウなどで発注するとオリジナルの製品が直ぐにコピーされてしまい、
オリジナリティーが無くなってしまうそうである。

私にとっても村人にとっても「ありがたい」事であった。
彼女たちは、約2週間ほど村に滞在して女性たちに特訓し材料や編み棒・鈎針を置いていき
1ヵ月後に来ることを約束し去っていった。

それが、現在までも続いている。(6年以上である)
この村でも3年と言う時間はあっと言う間に過ぎ去り、去る時が来たが仕事は出来たのかと言うと、
大きな仕事は無く、ただトイレの改修と水ラインの工事を行ったに過ぎなかった。



《メールダラの小学校》2012年4月~2016年の現在に至る

この村では学校の校舎を宿泊場所として、多くの日本人に来て頂き運動会や腹話術さらには
学生さんたちによる「国勢調査」も実施してきた。
子どもの数も少なくて42人と今までで一番小さな学校である。

そんな中で学校の修復をして下さいと習志野の女性から依頼され、石積みの校舎をセメントで修復し、
ペイントや絵などを施し完成の式典を待って居た時に「地震発生」である。

山の学校の校庭は狭く、危険なためベルギーの仲間がフェンスを習志野の女性が、
ゲートとトイレ水道と校舎の修復をして下さったが、それが一瞬にして消え去った。

若い村長は少し手直しすれば使える校舎を「全て撤去」してしまい、校舎を修復していた我々に何の連絡もしないまま、
更地になってしまった。

この時の村長の考えは、建物があると新たな支援が受けられないから撤去したと言う。
誰が新たな支援者なのか??

人間の無力感をこの時ほど感じたことは無かった。

現在は、ミナの兄弟5人と弟のお嫁さんと息子(竜馬)も一緒に生活している。
今考えて見ると、最初の3年間ほど苦しい時は無かったように思えてならない。

今は、振り出しに戻りラムチェ村の復興支援と子どもの学費支援に没頭。




今回の「ネパール通信」はアウトルックメールにして添付写真が出来ない?
操作ミス?
現在悪戦苦闘中!、
何方か教えていただける方が居ないでしょうか?
文章だけでご辛抱願いたい。










井戸の外からとネパールの習慣は当面割愛させていただきたい。






では次回「ネパール通信」まで。



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  1. 2016/07/05(火) 14:52:14|
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2016年総括

6月17日(金)天気:晴れ 気温:24℃ 湿度:55%


毎年、この時期に活動の年間総括をさせていただいている。
特に今年は、多くの義援金をいただき、地震の復興支援にあたる動きが主な仕事であった。



「復興支援」
被災地域(ラムチェ村)への救援物資の配布や仮設住宅の建設資材などなど、
移動手段もない状況の中での支援活動は困難を極めた。
しかし、多くの人々の影で仮設住宅は完成、仮設校舎も完成した今、新たな活動へと移行しなければならない。
それは、恒久的な家屋の建設である。

ではなぜ、こんなに建設工事が遅れたのか?
それは、農作業はこの時期を逃すと1年はおろか2年間(種籾の関係から)は確実に食料が不足する事となるため、
仮設住宅より農作業であったのが、遅々として復興が進まなかった要因の一つでもあった。
崩壊した家屋の中から「ひえ・米・麦・とうもろこし」などの種を取り出し、畑や田んぼの仕事に忙しい1年であったと観ている。

先般も、銀杏旅館に来られたゲストにラムチェ村での農作業をお手伝い願ったが、
やっと通常通りの収穫が得られるような体制が整ったと実感した。

昨年の今頃にはチトワンにて自分自身の「癌」の治療にあたっていたこともあり、
苦しかったあの時期を思い出しながらのレポートとなった。



「メールダラでの活動」
さて、昨年8月にネパールに戻り、最初に仕事はメールダラの後始末であった。
学校の校舎の存続を期待しながらの訪問は、若い村長の意と合わず「子どもたちには全く関係のない理由」から
支援活動の撤退を決断するに至った経過は以前の通信でも報告していた通りであったが、
彼らの「欲」と私たちの「思い」との間にはかなり「大きな隔たり」があったようである。

学校の校舎は、地震による被災箇所を修復すれば使用可能であったにも関わらず、
撤去しないと新築する「新たな支援」が受けられないと考える村長との葛藤は
最後まで「埋まらない溝」を残したままで撤退を決断するに至った。
残念の一言である。

この村(メールダラ)を主体的に活動していた学生の団体はと言うと、子どもたちとの関係を断ち切る事が出来ず、
村長の「要求」である「水場」の設置を受ける形で活動を続けているが、
何せ日本に居ての活動では細部に亘る注意が出来ず、かなり困難を極めているようである。

今回の地震で水源の水が出なくなり、生活用水に苦労しているとの情報から学生団体が手がけた支援活動ではあるが、
この仕事は(水の仕事)途中で挫折する事だけは止めたい。
なぜなら、全く無駄なお金の使い方になってしまうからである。

ここネパールで(山村で)水のラインを作る事の「難しさ」はやったものでなければ分からない事である。
何処に水源があるのかの調査から始まって、ボーリングの必要性やラインの長さなど、
さらに「タンク」の設置などなど、数多くの仕事があるが日本に居ては完全な「お任せ」になってしまうため、
完成も何時になるのか、幾らかかるのかも?

何十年と支援活動をしている方々でも「留守にすると」工事が止まったり、とんでもない物が出来たり、
壊されたりする事が常であるのがネパールである。
こんなところでの支援活動に「何処まで耐えられるのか」が試されているのである。

一方、地震でほぼ全壊したミナの部落とミナの家では、最初に仮設住宅(コテージ)の設置から取り掛かったが、
設置場所の設定も極めて難しい。

中には道路の真ん中に設置してあるコテージもあり、何時恒久的家が出来るのか判らないのにである。
幸いミナの家では全壊した家の敷地の瓦礫撤去作業は被災から1年後に整地が完了した。

さらに、ミナの家の立地条件が悪く建設機材を運搬する費用が(人による運搬)かかるため、
お婆さんの敷地(車の入れる道路側の土地)を分けてもらえるよう交渉が続けられてきて、先般やっとその手続きが完了。
ラムチェ村へ運んだ建設機材を小型トラックで運搬している。
この「モデルハウス」は「震度5でも絶対倒れない」構造で建設している。

ただ、一部屋だけの細長い建物では安定感がないため「段々畑」に頑丈な「柱」を建てて2段の畑を1段にしての建設になった。
この構造については、専門の技術者による設計によるもので政府の認可もあり、補助金も獲得出来る構造である。
完成目標は8月末と考えているが、ここはネパール・・・・9月になるかも。



「小学生の支援活動」
ここラムチェ村は10年ほど前に支援活動をやっていた村で、
校長先生や多くの先生方も顔見知りに方が多く「元気だった?」と声を掛けてくれるのが嬉しかった。

10年前にここを去る時の状況が「惜しまれて」次の村へ移動した事が
今回、再び会えた事の喜びも増したのではと考える。

ここの小学生も、今回の地震で両親が亡くなったり、兄弟が亡くなった子どもも居て、
どんな支援が必要なのかを聞き取り調査から始めたが、やはり勉強の出来る環境を作る事が先決との結論に達して、
学校で必要な物を支給し学校へ通ってもらう事を優先的に推進する事とした。
結果、25人の子どもたちの衣類・学費や制服・カバン・文房具などの支援を主体的に行う事とした事は評価したい。



総合的評価として、自分の健康状態もあるが「良」であったと考える。
メールダラの管理人さん家族からは、今も電話があり「何時来てくれる?」との催促もあり、
後ろ髪を引かれながらも難しいのが現実である。





添付写真は、この1年の動きで観てきた様々なショットである。
尚、添付枚数を少なくさせていただいたのは、容量的に配信出来ない方も多く
最小限の枚数になった事をご理解いただきたい。

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  1. 2016/07/05(火) 14:31:05|
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マライ ターツアイナとの戦い

6月7日(火)天気:曇り 気温:24℃ 湿度:65%


震災から1年3ヶ月、未だに手付かずの家が多いネパールでは、コテージでの暮らしが定着?しているようである。
カトマンドウの街の中でも未だに瓦礫のままの家もるが、数は少ない。

しかし、一歩山村へ入ればその殆どが「瓦礫」はそのままで
コテージでの生活を10年以上続けるつもりのような生活ぶりである。

以前と同じような家を作る人もあり、今度地震が来たら同じ瓦礫になるだけである。
そんな考え方は、ある意味仕方の無い現実でもある。

つまり、お金が無いだけである。
ネパールの山岳民族の内極めて少数の人だけが「政府公認」の家を建てるお金を持っているに過ぎない。

殆どの(9割以上)家では、200万ルピーなど出せるわけも無いのある。

政府が安い金利(2%)程度で貸し付けてくれるが、
返す当てなど全く無い村人には「正に絵に描いた餅?」と同じであろう。
政府も地震に強い家には20万ルピーを出してくれるが、今までのような家では1ルピーも援助してくれないのである。

ここで、知っていただきたいのは彼らの基本的考え方である。
問題点は彼らの多くは、借金を(自分のお金)同然に考えている事にある。

家族の内で、誰かが外国へ出稼ぎに行っていれば借金の返済も出来るが、
通常であれば「担保」となった土地などが銀行へ持って行かれる事が分からないのである。

通常の生活においての「借金」は八百屋さんやお米屋さん・あるいは油屋など借金するのは日常的行われていて、
「借金が悪」だと言う感覚は全く無いのである。

先般、ミナが「お父さん銀行でお金を借りてジープを買おうよ」と言って来たので、金利は幾ら?と聞くと
年利20%と言う。ただでさえ高い車である。
20%の金利を払って購入すれば、100万ルピーの車が120万ルピーになる。

この意味をミナに分かってもらおうと、2時間も掛かり話たが結果、「お父さんはなぜ借金をしないの?」と
最後まで食い下がられ閉口した。

日本では安い車であるが、ここネパールでは関税の関係から
ジープの新車などは280万~300万ルピー(300万円~320万円)もする。
日本では120万円程度の車である。

ここで問題にしなければならないのは、家の建設において掛かる費用である。
日常に扱う金額ではない。

さらに、建設に必要な材料は例え「釘1本」でも、施工主が支払うのである。
従って、何時でも現金を持っていないと工事の遂行が出来ない。

さらに、今回の表題でもある「マライ ターツアイナ」(私はしらない)は
建設現場では絶対にあってはならない事でもあるが、それを事前に聞き出す施工主の姿勢がないと、
工事が頓挫する結果となる。
それだけに、慎重に、確実に進めなくては「柱1本」も建たないのである。

先日、バスルームの大きなガラス扉に「ヒビ」が入っていたのを見つけたため、
「何時誰がたやったの?」と聞いたが、家族の誰もが「マライ ターツアイナ」ばかりで、結局何時割れたのかも???
知ってても言わないのが「ネパール人」の常識である。

全てにおいてこんな状態だから、常に仕事の進捗状況を確認しながら工事を進めないと、
とんでもない家が出来てしまう事となるのである。

もう13年もの間この「マライ ターツアイナ」と「ほう・れん・そう」が無い生活に苦しめられてきたし、
これからも同様である。とほほ・・・・・・であるが、
これを克服?認める?ような「考え方」をしないと、ネパール人との生活は出来ない。

でも「胃」が痛む毎日ではある。
1対6人である。いやいや半人前の1歳半の「竜馬」も居た。
これだけは確信をもって言える事である。
彼らの考え方は理解できない!しかし、諦めるところから出発である。









添付写真は銀杏旅館の工事現場と「ツバメ」
さらに工事に必要な水を雨で補おうと作った雨水のタンク・てるてる坊主の2つの役割(雨が降って欲しい・止んで欲しい)
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井戸の外からとネパールの習慣は当面割愛させていただきたい。






では次回「ネパール通信」まで。



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プロフィール

筋田 雅則

Author:筋田 雅則
20代半ば、岐阜県山岳連盟の
カシミール遠征隊へ招聘
その帰り、初めてネパールへ立ち寄る。

その後、ネパールの同宿の山仲間と、
「学校づくり」を開始し約30建設
ネパール支援を何十年も繰り返し、
定年退職後、ネパールへ移住。

現在はカトマンドゥ在住、
ラムチェ村を中心にボランティア活動を行う。

ブログでは、ネパールでの
ボランティア活動報告を通して
生きた現地情報をお伝えしていきます。

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