ネパール通信

ネパールでのボランティア活動報告を通して、生きた現地情報をお伝えします。

感謝と遅々として進まない被災地の救済

5月25日(月)天気:快晴 気温:肌が焼ける 湿度:?



はじめに、地震から1ヶ月が経過し日本全国から多くのみなさんの「心のこもった義援金」に感謝いたします。
本当にありがとうござます。
この義援金は全てラムチェ村の復興に向けた取り組みに使用させていただきます。
しかし、この活動は1年や2年では終りません。
皆さんの何時までも変わらぬ、ご支援と叱咤激励をお願いします。


今ネパールには何が起こっているのか?
神は何に怒っておられるのか?
人口、僅か2800万人の国で・・・・
8000人にも及ぶ犠牲者・・・・・・

極貧国の唯一の財産である多くの世界遺産や観光地さらには多くのトレッキングルートを全て破壊しつくし、
まだ飽き足らず山村の小さな町まで土砂の下に隠し、これから何年掛かって復興せよと言うのか!
神の仕業とは思えない仕打ちである。

先の「大使館からのお知らせ」でもご承知の通り、これを書いている今、
ポカラから西へローカルバスで3時間ほどの「ベニ」の街では大雨により川の水量が増し、
中州の村を飲み込み西の斜面からは大規模な土砂崩れでジョムソン街道を遮断してしまった。

今もアンナプルナのジョムソンへは多くのトレッカーもは行っているが、彼らは大きく迂回してポカラへ戻る事になる。
このルートは多くの日本のみなさんにも馴染みのあるルートで、
タトパニあたりからゴラパニ経由で迂回する以外に逃げ道はない。
(画像は撮影困難につきご容赦願いたい)

ネパール全土に広がる自然災害は、
今までの文明国の作り出した「地球上のアンバランス」を全て是正するためのものだろうか?



癌センターの待合室に「借家住まい」の「すずめ」
何か「ほのぼの」としたものを感じる。(すずめはいい、飛べるから)

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井戸の外から&ネパールの習慣は今回も割愛させていただきたい。







では次回「ネパール通信」まで。



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  1. 2015/05/25(月) 19:52:46|
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臨時報告(Ⅱ)躊躇と迷い、そして決断!

5月23日(土)天気:晴れ 気温?湿度:?


今、この通信を「癌センターの待合室」で書いている。
5月20日(水)ドクターによる処置が言い渡された。
現在のキャンサーはかなり大きいが「初期」のものであり、他への転移も見られない。
従って、放射線治療と投薬により、キャンサーそのものを小さくする方法で処置をスタートする。(ミナの通訳)
そのための、手続きにかなりの時間が掛かったが、ミナの奮闘で1日で終えた。
小さくしたキャンサーは手術も出来るし、そのまま続けて消し去る事も可能との事。
ただし、期間が何ヶ月掛かるのか??

今回の体調不良で「改めて思い起こした事」は、私自身の「ネパール支援」に対する姿勢である。
当初ここに来た時から「彼らネパール人と同じ目線に立った活動」をする為には、
自分が彼らの位置に居ない事には何の問題解決にもならないと言う事であった。
つまり、「驕り」があってはならない。と言う事である。

「誰が作ったのか分からない、でも毎日使っている」こんな施設が一番いい。
この場合にも同じ事が言える。
日本人だから高度な医療設備の恩恵を受けられるから安心してネパールで活動が出来る?
しかし、これは彼らと同じ目線での活動にはならない。
自分は安全圏内でネパールの人達を見下ろして「手を差し伸べている」事とおなじである。
「溺れている人を、岸から手を差し伸べても届かない事と同じ」である。
自ら濁流に飛び込む、勇気と機転が必要である。

そのためには「まず人一倍泳げる事」である。
自分も「ネパール人同様の医療設備で、生きなければ」彼らの思いは理解できないし、理解してもらえない。
日本とネパールでは医療の点ではかなりの差があり、その分リスクを背負うが、
「ここで治さなければ、と決めた自分に負けたくはない」ただそれだけである。

さらに、決断を促したのは、ミナの「お父さんは日本人だから、日本へ行って早く治してから戻って来て」と言う
ミナの瞳が光っていたのが、私の手術をここでする決心をさせたと言える。
辛かった・・「対岸の火事の心」を完全に読まれていた事に脱帽である。
例え何ヶ月掛かってでも、ここネパールで「癌の完治」するまで治療する!

もう一つの大きな理由はここに居れば、支援活動の動きを詳細に知る事が出来、
パトネちゃんやラスミに仕事の依頼が出来る事である。
この時携帯電話は、非常に便利である。
昨今の携帯はパソコン機能も有していて、極めてコンパクトな優れものである。

5月21日には治療のプランニングが行われ、どんな周期で放射線治療をしていくのかをドクターと話し合った。
結果、月曜日~木曜日までの毎朝、当面3週間やって血液検査でチェックしながら、
さらに1ヶ月と言う具合に進めて行く事になった。

そうなると、長期治療に備えるためにも居住環境の改善とネット環境の確保が必須条件となり、
明日(5月23日)からそうした環境の家に移ることとした。

ミナの努力で一泊300Rsだがバストイレが付いていて、冷蔵庫やキッチンも自由に使え、
さらにリビング(同じフロアー)にはワイファイも完備。抜群の借家である。
屋上に屋根のあるオープンスペースがあり、おまけにベッドまで準備されていたのは驚いた。

「これも使っても良いのか?」の質問にオーナーさんは「何時でもOK」との事。
これで安心して「放射線治療」に専念できる。
1日10分程度の治療で、後はのんびりとネットで仕事が出来る。

一方、避難した子供たちの「寄宿舎」をバネパの町で捜索中であるが、
なにせ、震災に被災した家屋の中での捜索はかなり難しい事である。
ネパールの人はクラックの入った家では「安全でない」との考えが殆どで、
あの地震でクラックの入っていない家は少ないからである。

現在、カトマンドウではパトネちゃんに、ラムチェ村から避難した子供たちの親さんに呼びかけを開始するようお願いした。
初めての取り組みに、幾許かの戸惑いはあるが「やろう!」と決めた以上進むのみである。
村人の「自立支援」なれば・・・・・
ゆっくりではあるが、確実な動きをしていきたい。
チトワン癌センター近くのネット屋さんから配信。

添付写真は、2度目の地震で宿で滞在していた観光客や店主が、広場を探して集まって来たところ・
癌センター近くの町の様子とライチやマンゴーの林。

同じような病状の人達が居て、いろんな意見が聞けて飽きない。

井戸の外からネパールの習慣は、しばらく休ませていただく。



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では次回「ネパール通信」まで。



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  1. 2015/05/25(月) 19:43:58|
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臨時報告(そのⅠ)

5月17日(日)天気:かんかん照り 気温:体温以上 湿度:??


今回は、余震が頻繁に続く首都カトマンドウを出て、国立公園で名高い「チトワン」に来ている。

仔細は前回の通信にも記載したが、当方の「体調不良」から検査した結果、
ドリュケルホスピタルでは「癌の疑い」がある、ついては「本格的に検査し治療するためにも、
専門病院に行った方がいい」の助言から5月13日カトマンドウを出発して
一路紹介された「チトワンの国立癌センター」へと急いだ。

この13日昼ごろにも震度7.4の地震があり、観光客の殆どは居なくなった。
中でも中国の対応は早く4月の最初の地震で、99%の中国人観光客は中国の準備した臨時航空便で脱出。
あれだけ居た中国人観光客が全く見えない!

午前7時に出発したツーリストバスは、午後2時にはチトワンに到着。
受付は何処かも分からず「うろうろ」していると、知らない「おばさん」が何処から来たの?とミナに質問。
ミナも皆目要領が掴めない病院の仕組みに右往左往していた時で、
親切な「おばさん」に案内をお願いし「受けつけから診察」までを面倒みてくれた。

ミナの言うのには彼女は借家に持ち主で、「間借り人」をい探していたようであるとの話。
なるほど・なるほど・・・そうであろう・そうであろう。
遠くから来る患者さんとその家族の「待機場所」としての宿である。
その宿から病院へ投薬治療に通う患者や手術後もしばらく滞在して投薬を続ける患者などさまざまである。

最初の診察で、ドリュケルホスピタルから持って来た資料には目を通さず、
血液検査→心電図→内視鏡(胃カメラ:インデスコピー)まで検査するのに3日間を要した。
そして、土曜日は国民の休日!  遅々として進まないのが通常である。

でも誰も愚痴を言わず、不満も漏らさず、ただただ「忍」の世界である。
「食道から採取した患部」の結果は3~7日ほど必要との事で、
再度ドクターに早くしてくれるようミナが依頼しに出かけた。
結果はまだ分からないが、もし早く結果が出るようであればドクターに「お礼を握らせる」とミナ。流石はネパール人!

この結果で手術をするのか、投薬で治療するのかを決めるそうである。
併用もある。

ここの癌センターの周りには、長期間の滞在で宿泊施設が数多くあり、
一日200Rsで食事が1食200Rsで肉や魚は300。
2~4ヶ月も間借り生活をしている若夫婦とお母さんも居た。

彼女は投薬で初期の癌治療をしていて、殆ど完治したようである。
ここの家主も家をそっくり借りていて、間借り賃で支払いをしているようであった。
でも「めちゃめちゃ暑い」から夜は屋上にマットと蚊帳を釣って寝ている始末。
私が屋上で寝始めて3日目、ここの家主のご主人も上がって来て寝るようになった。
そうであろう、なんぼ「チトワン育ち」でも暑いものは暑いのである。

さて、こうしてカトマンドウから遠ざかっている間にも余震は多く、
再三、ラスミちゃんから電話で「そっちは大丈夫?」と電話が掛かってくる。

ここチトワンで今後の支援体制を考えてみた。
我々のような小さな団体も数が多く集まれば「大きな仕事」が出来るのではと考えたのが始まりであった。

なぜなら、食料・衣類・はテンポラリーに支給する団体(国や国連・ユニセフど)が居るし、
遅れては居るが各国からの支援物資やお金もある。ただ何時からなのかは不明。

こうした状況で、如何にしたら継続的な支援が出来るのか?
日本では、「自立支援」をそれぞれのボランティアがテリトリーを分担して避難所運営や仮設住宅での活動をやってきた。
しかし、メンタルに関する病気には手が出ないのが現実で、仮設住宅から引き離す事しか方法が無かった。

独居老人を正月休み期間中、夏休み期間中など何処かの施設で預かり、仮設住宅のみんなが戻るころに返すのである。
暑い仮設住宅・寒い仮設住宅に居ると「自殺者が続出した」経過を踏まえて、
多くの災害施設では対策が取られて来たはずである。

しかし、東日本のような例ははじめてである。
いろんな要因が折り重なって「重い精神疾患」を起している。
家庭破壊も頻繁にあり、東海地方や遠く九州までも「避難生活場所」を移している方々も多い。
ここネパールでは「核問題」はないが、危険と知りつつ被災現場を離れられない人々が多い。

シンドパルチョークの最も悲惨な被災地である「ラムチェ村」では政府により
居住地を「村ごとそっくり移転する計画」がなされているようであるが、難しい問題であろう。

何百年と培ってきた「村での生活」を捨てられるはずもない、と思っていたが
5月16日11:30分ごろラムチェ村に居るパトネちゃんからミナへ携帯電話が入り約15分ほども話していた。
電話の後、ミナが「お父さん大変!ラムチェ村の人が居なくなった」と話した。

内容は実に最もな話で、毎日のように落石の恐怖にある村を捨ててカトマンドウへ引越しがはじまったようである。
もちろん、お年寄りは別である。
これは何処の国でも同じで、長年生活してきた村を捨てて都会になんぞ行けるものでもない。
もっと近くの村ではなぜいけないのか?の質問に、村では土地が無く家も建てられないし、
やはり村意識が強いため一緒に暮らすとなると都会しかないのが本音であろう。

ミナのお婆ちゃん(酒豪の)も「わたしゃ、ここで死んでもいい!」と言って村を離れない。
困ったのは息子さんで、泣きながらミナに電話で「どうしよう?」と相談してくる・・・・
何でミナばかりに相談がくるのか???

しかし、友人知人を頼っての移動である。
家財道具一式とは言ってもほんの少しの台所用品と寝具くらいで、後は崩れた家から引き出した「穀物」である。
ミナへの相談は「お父さんやお母さんをどうしよう?」であった。

当面、銀杏旅館に入るにしても1~3年という分けには行かない。
でも牛やヤギさえ居なければ可能なのだが・・・・

カトマンドウに借家を借りて生活する事になるが、
お母さんは「私の牛やヤギや鶏が居るのでカトマンドウには行かない!と困った事である。
しかし、この牛やヤギは移動する事が出来ず処分しかない。
それも可愛そう・・・・・

ロールワリンでは多くの土砂崩れでトレッカーや村人、さらにはレスキューに出かけたUSAのへりさえ墜落。
先日もチベットのアイイルベーダーのみなさんが5人ほどラムチェ村へボランティアに来て、
5日間の滞在予定であったが連日の「落石や土砂崩れ」の「音」で
2日目には「もうこの村には居られない」と言って薬をミナに預けて逃げ出した。
散々なシンドパルチョークの現状である。

お母さんの思いも・危険な村を捨てよと言う、政府の言い分も最もな事である。
しかしそれらの動きを見つめながら「今後の支援体制」を考えていきたい。
「痒いところに手の届くような」支援を目指して!

日本でも避難所から仮設住宅への移動は、多くの住民が拒んだ。
なぜなら、隣近所は誰も居ないし、知った方も居ないからである。
年をとってからの移転には、精神的苦痛を伴うなものである。

この変動するネパールの社会情勢の中で、何が正しいのか何が誤りなにかを、
見極める確実な支援体制を構築するには毎日の確実な情報であろう。

地震や土砂崩れの危険が無くなった時点ではじめる事と、今する事を今検討する。
余震の止まない状況では何をやっても無意味に終る。

現に、当方がラムチェ村の第一報を入れた後、数箇所の土砂崩れでまた多くの犠牲者が出た。
バラビシから30分ほど登ったところの全壊した学校も、今はその姿を見る事ができない。
私がが行ってから1週間ほど後の土砂崩れで流されてしまった。
ラムチェ村が廃村になる事は有り得ないが、しかし・・・・・。
なぜなら、160世帯の住民の意思が「ミナのお母さん」と同じ考え方だからである。
余震が終って必ずやってくる、村の再建時期はまだ未定だが「来た時には直ぐに移れる対策」が必要であろう。

その手始めが、「ミナの家に事務所を開設」である。
(ラムチェ村デベロップ事務所Orラムチェ村デベロップ協会)

RVDO・RVDAとし、総合的な村の再建計画をミナやパトネちゃんたちと村の考え方も含めて協議し、
確実に進める方向を見極めたい。
対象はラムチェNo2~3の160軒である。
「自立しようとする人々が対象」である。

しかし、これまでの状況を考え、ミナやパトネちゃんもの相談しながら、
当面は「都会に避難してきたラムチェ村の子供たちの勉強する場所を提供」して
「寄宿制度を実施」していくのが最優先と考えた。
なぜなら、移転先での勉強が辛い子供たちに
「安心して勉強出来る場所」を提供する事が最優先で求められるからである。

今まで一緒に学んできた仲間と一緒であれば、何と心強いことであろう。
食事や清掃は父兄の順番制で実施し、日本人によるボランティアのみなさんにも
参加していただき、子供たちのお世話や遊びを通して、ネパールのおかれた現実を実感していただき、
長い活動としていきたい。
寄宿舎の場所はサンガ&バネパの適当なところを物色中である。

現在、既に動き始めている。
この活動を多くの支援団体で支えていただきたい。
もし、この通信を読まれて「私も・我々も参加したい」と考える方が居たなら幸いである。

その場合、必ず「岐阜ネパール会のHP」から「お問い合わせ」の事務局へその旨、
連絡方お願いしたい。(HPの案内は末尾に記載)
もちろん、ここのマネージャーにはミナ(ラムチェ村出身)にその任にあたってもらう。

村人が村へ戻るまでは、この活動が主たる活動となる。
村人が村へ戻ってからは前記に記載の通り、復旧活動に移りたい。

多くの場合、常に現場での即決やフレキシブルな対応が要求されるであろう。
今からそんな覚悟は必要である。





私の見た学校であるが、今はない
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崩壊の進んだラムチェ村・緑いっぱいの村ががけ崩れで無残な姿に
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2度目の地震で外に逃げ出した観光客やネパール人・中国によって建設された国立癌センター
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そして最後に10年以上も昔の「世界がもし100人の村だったら」をお届けし、
それぞれの「ポジション」を思い出していただければ幸いである。

「世界がもし100人の村だったら」(マガジンハウス発行)
・世界には63億人の人が居ますが、もしもそれを100人の村に縮めるとどいなるでしょう。
100人の内
・52人が女性です。48人が男性です。
・30人が子供で70人が大人です。そのうち7人がお年寄りです。
・90人が異性愛者で10人が同姓愛者です。
・70人が有色人種で30人が白人です。
・61人がアジア人です。13人がアフリカ人・13人が南北アメリカ人・12人がヨーロッパ人あとは南太平洋地域の人です。
・33人がキリスト教・19人がイスラム教・13人がヒンドウー教・6人が仏教を信じています。5人は木や石など、全ての自然に霊魂があると信じています。24人は他のさまざまな宗教を信じているか、あるいは何も信じていません。
・17人は中国語をしゃべり、9人は英語を、8人はヒンドウー語を、6人はスペイン語を6人はロシア語を4人はアラビア語をしゃべります。これでようやく村人の半分です。あとの半分はベンガル語、ポルトガル語、インドネシア語、日本語、ドイツ語、フランス語、などをしゃべります。
・いろいろな人がいるこの村では、あなたと違う人を理解すること、相手をあるがままに受け入れることにより、そしてなにより、そういうことを知ることがとても大切です。
・またこんなふうにも考えてみてください。村に住む人びとの100人のうち
・20人は栄養がじゅうぶんではなく、1人は死にそうなほどです。でも15人は太り過ぎです。
・全ての富の内6人が59%をもっていて、みんなアメリカ合衆国の人です。74人が39%を20人がたった2%を分けあっています。
・全てのエネルギーのうち20人が80%を使い、80人が20%を分けあってあいます。
・75人は食べ物の蓄えがあり、雨露をしのぐところがあります、でもあとの25人はそうではありません。17人は、きれいで安全な水を飲めません。
・銀行に預金があり、財布にお金があり、家のどこかに小銭が転がっている人は一番豊かな8人の内の一人です。
・自分の車を持っている人は7人のうち一人です。
・村人のうち、1人が大学の教育を受け2人がコンピューターを持っています。けれど14人は文字が読めません。
・もしあなたが、いやがらせや逮捕や拷問や死を恐れずに信仰や信条、良心に従って何かをし、ものが言えるなら、そうではない48人の人より恵まれています。
・もしあなたが、空爆や襲撃や地雷による殺戮や武装集団のレイプや拉致におびえていなければ、そうでない20人より恵まれています。
・1年の間に、村では1人が亡くなります。でも1年に2人赤ちゃんが生まれるので来年は、村人は101人になります。
・もしもこのメールを読めたらなら、この瞬間、あなたの幸せは2倍にも3倍にもなります。なぜならあなたには、あなたのことを思ってこれを送った誰かがいるだけでなく文字も読めるからです。
・けれどなにより、あなたは生きています。
・昔の人は言いました、巡り往くもの、また巡りくる、と。
・だからあなたは、深々と歌ってください、のびやかに踊ってください、心をこめて生きてください、たとえあなたが、傷ついても、傷ついたことなどないかのように、愛してください。
・まずあなたが愛してください。
・あなた自身と人がこの村に生きてあるということを。
・もしもたくさんのわたしたちが、この村を愛する事を知ったなら、まだ間に合います。人々を引き裂いている非道な力から、この村を救えます。 きっと!





井戸の外から&ネパールの習慣は今回も割愛したい。









では次回「ネパール通信」まで。



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  1. 2015/05/18(月) 17:51:14|
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番外編:画像報告

今回は、「通信」と言う形ではなく、画像報告をさせていただき、
救援物資がどんな様子で配布されているのかをご覧頂きたく配信するものです。

現場は「銀杏旅館」のゲートの中で日本人の方(有志3名)による、サンガへの救援物資である。
もちろん、これにはミナの努力があって実現したが、
その中のリーダーの一人が「今後のサポート体制」を相談したいと申し入れがあり、
現在の当方のラムチェ村支援体制の概略を説明。
ネパールで一番被害の大きなラムチェ村の復興支援体制の概略を約30分掛けて説明し、理解を求めた。

彼らは6月までここネパールに居て、もっと深く具体的に相談したいとの意向で、
当方の退院後再度伺いたいと言われ、取り急ぎカトマンドウへ戻って行かれた。
彼ら若者の今後に期待したい。

すじた 、明日からチトワンにある「癌センター」へ移動し摘出手術後、
再び「ネパール通信」でお会いしましょう!



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  1. 2015/05/12(火) 20:45:10|
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5月11日の被災地

5月11日(月)天気:快晴 気温22℃ 湿度60%


今回は、震災後約2週間が経過したネパールの「支援体制」についてお伝えしたい。
政府の支援は今だ動かず、キリスト協会・ネパールの学生団体・ユネスコ・国連・各国の捜索隊・
諸外国の個人による救援物資など多くの支援団体にも関わらず
「本当に必要な山村」には極一部が届けられているだけで殆ど手が打たれていないのが現状である。
そうした政府の仕事に、国民の批判は時には実力行使にも発展している。

日本の報道では「日本人と同じような整然」と並んで救援物資を受け取るネパールの人々と報道されているが、
現実は違う。その状態にある山村への支援物資の供給は「神経」を使う。

ミナやパトネちゃんの村へは本人たちが個人の支援者を募り、少しづつではあるがラムチェ村へ運び込んでいる。
しかし、これは「ほんの入り口」であり、本来の支援活動とは「被災者の自立」に向けた支援がなされなければ、
永遠にテント生活から抜け出せない。

80年前に起こった地震以来、誰も体験した事のない「大地震」である。
日本とは異なる環境で、ニュースの案内も「家に居ては危険!」をしきりに呼びかけていて、
余震が無くなるまで続けられるであろう。
ここはネパール、80年掛けて震災前の生活に戻って行くのだろうか?
そして、また同じ災害の被災者に・・・・

ネパールの街ではレンガ造りの家が殆どで、田舎に行けば「石と土」の家である。
そのレンガ工場の煙突も半分は崩壊しているが、今だレンガを焼き続けている。
政府や日本の建築技師などの指導で「軽量建築材料への変更」を呼びかけているが、レンガ工場主たちが猛反発!
代々続けて来た「レンガ工場」を止める分けにはいかない。
今日も「せっせと」壊れた煙突でレンガを焼いている。

本来ならかなり、値上がりするレンガだが、こうした経緯からかさほどの値上がりは耳にしていない。
スナウリボーダーやトリブバン空港のカーゴエリアでは満載の救援物資が放置してあり、
何時被災地に向かうのかさえ分からない。

現在でもランタンリルンのトレッキングルートでは
「落石による」被災者(外国人や現地の村人)が「瓦礫の下敷き」になった状態で埋まっていると言う。
この村では、以前ベルギーの20歳の女性が殺害されると言う悲惨な事件の起こった所で、
政府や一般の支援者による救援物資の輸送までには至っていない。

今日も「銀杏旅館」のあるサンガ村には「救援物資」がネパールのロータリークラブの人達がやって来て、
お米を配っていった。
「我が家も被災者」だと言う事が改めて思い起される。

毎週のようにやって来る「救援物資」は、「被災状況のひどい」バラビシやラムチェ村には手が出せない。
カトマンドウに居る「ミナ」が極めて個人的に救済者を見つけては、ラムチェ村へ届けているのが実情。
少しづつではあるが、「がれき」の撤去がはじめられ「ゆっくり」と家の新築に向かっていくのだろうか
こんな、被災した銀杏旅館でも来客があり、リピーターも出来はじめたのは誠にありがたいことである。

今はまだ銀杏旅館の補修には手が出せないが、ラムチェ村の状況次第では結構早く着手出来そうである。
来月には、軍隊に行っている「サロジ君」が戻って来るのを待って着手したい。
給湯設備も破損しているため、暖かいシャワーが使ってもらえない状態を早く改善したい。

一方、当方の「のどに出来たもの」はと言うと、ドクター曰く「貴方のは癌です」
でも詳細を調べなくては手術ができないので、今日はCTスキャンをやって来てください。」と言われ、
7000Rsを支払い、必要な薬品を入手して以前「気胸」の時にも行った事のある病棟へと出掛けてやってきた。
結果(レポート)は明日だそうである。
この結果を持って、手術をする病院へ紹介していただけるそうである。
ここドリュケルホスピタルでは「癌の手術」はやっていないのである。




遅々として進まない復興準備
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我家の被災状況
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救援物資の配布風景
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この後、5月15日ごろから1週間程度)は病院生活にはいるため「ネパール通信」はこの間休止させていただきたい。
今回も、井戸の外から・ネパールの習慣は割愛させていただきたい。










では次回「ネパール通信」まで。



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  1. 2015/05/11(月) 20:42:32|
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緊急地震報告(その二)

5月4日(月)天気:晴れ 気温:22℃ 湿度60%


はじめに、今回の復興支援に関わる義援金については、誠に勝手ながら領収書の発行は致しかねますので、
ご理解をお願いいたします。

ネパールの人々にとって多くは「初めての体験」であった今回の地震は、いろいろな問題を極貧国に与えた。
数多くの家の再建は何十年も掛かる事であろう。
さらに、「貧富の差」がさらに広がったと言っても過言では ない。
なぜなら、お金のある家は「倒壊せず」貧困な家は「全壊」状態となれば、必然的に借金でしか家の再建は不可能である。

さらに困ったのはやはりネパールマインドである。
今までの生活で、 支援に慣れている国民である。
個人でも団体でも同じだろうと要求してくるから問題が難しくなる。

ユニセフや赤十字などの大きな団体も、一個人の支援組織も、彼らには同じなのである。
今回のような災害は初めての彼らには、誰でもいいのである。

今回は先のラムチェ村の偵察から知り得た情報で、「初めに必要なものは何?」を考えた結果、
第一に食料の不足が目立ち、次に住居・雨対策の順だが
ラムチェ村は後ろに大きな「崖」を有して、雨期には毎年大きな石が落ちて来るという。
これが一番怖いそうである。
地震の時も落ちて来て多くの村人が怯えていた。
5mも7mもある大きな岩石が数百メートルも「ころがり落ちて来て」は殆どの人が恐怖を覚える。

こうした中で「私たちのやるべき事は何?と考え
「適切な被災地へ緻密な痒いところに手の届くような支援が施されるのが理想であろう。」と考えた。

一方、以前「編み物教室」でお世話になった「あやさん」から至急会いたいと連絡があり、
4月末日の夕方銀杏旅館まで来てもらった。彼女はアフリカに行っていて、戻ってきてびっくり!

取り合えず「何が出来るかを模索」していたようで、
旅館に着くと直ぐに「何をどうすれば」いいのか?「何処から」手を付ければいいのか?など
機関銃の如く話続けて「ちょっと外へ」といって「一服」、私も外に出て夜景の中で多くの質問に答え、
お金を集める努力をする時。
今は情報を集める時。
今は調査をする時。
と言う事を分かってもらった。
8時過ぎになったので「泊まっていく?」と聞くと「ヒッチハイク」でも何でもしてカトマンドウへ戻ります、との話で別れた。

翌日、バネパのレストランで彼女から携帯電話があり「明日ラムチェ村」へ行けないか?との問いに、
私もメールダラの被災状況調査のために同じ方向へ出向く予定が出来たため、
翌日スクテまで同行し彼女はそのままバラビシまで行き「パトネちゃん」と合流後ラムチェ村へ行き、
私はミルクのトラックでメールダラと別々の行動を取る事になった。

彼女も被害の大きな所への支援を考えていて、調査のためにラムチェ村へ入りたいとの事。
直ぐにパトネちゃんに連絡して、「あやさん」の行く事を伝え、バラビシでピックアップしてもらう事にした。
5月2日心配なメールダラの様子を調査に出かけた。

バスを乗り継いで、出来たばかりの鉄橋を徒歩で渡り、
大型トラックの荷台に米やラーメン・野菜などと一緒に「ぐちゃぐちゃ」の道を1時間、
足腰も「ふらふら」の状態でやっとたどり着いた。

村の入り口も多少の被災はあったが、住めないほどではない。
最も心配な「学校」はと言うと、セメントでの補強工事のお陰で殆ど無傷の状態であった。
一部クラックの入った所はセメントで補修してもらう事として村々を調査。
結果は4~6件の家はかなりひどく破損しているものの、多くは健在であった。

しかし、毎日のニュースでは「余震で崩れる家もあるため、外でテントを張って寝て下さい」との情報から
多くの村人はトタンやビニールで立派な「コテージ」を作りキャンプさながらの生活である。
しかし、ベッドの数が足りず小さなベッドに4人も寝ている状態であった。
村人も殆ど悲観的ではなく、普段と何ら変わることのない生活をしていた。
一安心であった。

村長さんからは「どんな支援をして助けてくれる?」との質問もあったが、
ここよりひどい地域「ラムチェ村の支援が先」である事を写真を見せながら説明すると、しぶしぶ納得したようであった。
これで、8月に日本の学生さんたちを受け入れる事が出来る。
しかし。
周りの街では「がれきの山」であり、それを考えると「良かった!」と喜んでばかりはいられないのが今の心境である。

銀杏旅館の被災状況はと言うと、新館屋上のソーラーでお湯を作る装置の足が「ぐにゃり」と曲がり
現在は使えない状態である。
さらに旧館はと言うと、昔ながらのネパールの家を考えて作った「石と土」の家であったが、
セメントで補強していたため大きな破壊もなく「クラック」だけで済んだのは幸いであった。

ここで生活すると言う事は、現地に根付く事を意味するが、
7年間も住んでいるが村人は「外国人」と言う目で何時も見ている。

先般もキリスト協会の支援物資が配布された折、(配布はヨーロッパ人)ある村人が私の事を
「彼は外国人であるので支援物資は不要」と配布している人に訴えていたが、
彼が「ここに住んでいるのか?」と言う質問に「そうです、7年になります」と答えると、
黙って「お米一俵と油・2000Rs現金・」を手渡してくれ、「ファイト!」と言って励ましてくれた。
外国人だと訴えた村人は「なぜ渡すのか?」と言うと、「彼も被災者だ!」と言って突き倒すように退けたのには驚いた。

しかし、救援物資を返却しようとすると再度「ファイト!」と言って受け取ろうとしないで、行ってしまった。
この時、村人から向けられた、日本人への視線を感じない分けにはいかなかった。
複雑な気持ちであった。

私たちに出来る事は、決して大きな事は出来ない。
それは「国や国際慈善団体」がすべき事で、一個人が何千万円もの支援が出来るはずもない。
しかし、「緻密な痒いところに手の届くような支援」を目指して日夜奮闘している。
被災から日に日に具体的な形になっていくのには「驚き」でもある。


井戸の外から&ネパールの習慣は今回も、割愛させていただきたい。






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では次回「ネパール通信」まで。



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  1. 2015/05/07(木) 13:14:12|
  2. ネパール通信
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緊急地震報告(その一)

4月30日(月)天気:雨 気温:21℃ 湿度60%


今回は、緊急報告としてネパールで起きた巨大地震をお伝えし、私たちに何が出来るのかを考えてみた。
はじめに、4月24日の「胃カメラ」の検査結果のレポートをもらうため、病院に出かけた話からお伝えしたい。

当日は先週指定された金曜日で、午前8:30には病院に着いていたが誰も居ないのである。???
守衛さんに聞くと「今日はこの病院の設立記念日」で休みだとの事。
唖然!!!
だったら先週言って欲しい!!!っと思ったが・・・
でも、ここはネパール「仕方が無いか・・・」で諦めるより方法が無い。

帰り道バネパに寄って昼食をと考え、ミナとラスミを連れてレストランへ行きそれぞれに好きなものを注文して食べる。
しかし、ミナは必ず私の注文した物も「手をつける」??
これは、多分いろんな物を食べたいのかなぁ~と思ってみたがそうではない。

彼女は私の注文したものが「どんな味」なのかをチェックいていると言うではないか。
あっぱれ「銀杏旅館の女将」と思ってみたが「そんなはずはない」と思い直して
「何でお父さんの注文した料理を食べるの」?と聞くと、見た目が旨そうだったから・・・・ただこれだけ・・・
隣の芝は青いだけであった。
肩透かしもいいとこである。

次の日は土曜日でミナはカトマンドウの事務所へ、パトネちゃんはトレッキングに行く予定であったが、
中止しそのまま事務所に留まった。
ちょうど昼ごろ「第一発目の地震」がやってきた!
約2~3分ほどの間かなり大きく揺れて、リビングの本は全て放り出された。

私の部屋も棚に収められていたしなもの(ごちゃごちゃ)が全部外に投げ出された。
ラスミが物凄い声で「お父さん、早く外へ!」と叫んでいたが、揺れが収まってから外に出た。
新銀杏旅館は問題なく、古い建物(つまり私の寝起きしているリビングと2階)は
流石にセメントが剥がされている箇所が数箇所あり、クラックも4箇所ほど見受けられた。

しかし、修理は可能な範囲と判断し村の中を見回ったが、
直ぐ隣の家が全壊していて外で奥さんが涙声で荷物を取り出していたのが印象的であった。

この私の住むサンガ村では銀杏旅館を除いて2~3軒しかまともな家は無く、
殆どが半壊もしくは全壊の被害状況であった。(添付写真の通り)


地震発生から2日が経っても余震は1日70回を数え、ネパールでは始めての大地震とあって、
ラジオでは「家の中から出て寝てください」と何度も案内が流されていた。
だから、キャンプさながらの外にテントを張り集団で寝る事になる。
我が家もその集団ベッド場となり、駐車場がそれに使われた。

3日目まで外で寝る事となったが、直ぐ上に私のベッドがあるのに・・・・と思いながら
冷たいセメントの上にマットを引いて寝る事にしたが、普段こうして寝た事がないため「なかなか寝付かれ」なかった。

4日目になり、やっと各家家の片付けがはじまり、「埃の舞い散る道路」を避けて、
その片付けを眺めていた。(出て行っても邪魔にされるだけである)
ラジオからは刻々と新しいニュースが聞こえて来て、
このサンガはシウンドパルチョークに次ぐ強い地震の地域だったようで、
一番強いのがミナの村のあるバラビシの近郊であった。
この日もラジオは「まだまだ地震は来る!家の中では寝ないでください」と訴えていた。
結果ミナの村では数十人の村人が亡くなり、全ての家が全壊状態であった。

現在の支援部落の様子も気になり、パトネちゃんにメールダラの学校と村の様子を見てきてくれるよう依頼。
彼はメールダラの調査だけでなく、自分の村(ラムチェ2)でもあるラムチェ村(約80軒の村)にも出向き
今後の復興準備もして来ると言って出かけた。
流石、長男である。

この時から「どうする復興を!」と考えるが、二つの村を同時に手がける事などとても出来ない。
だったらミナの村である「ラムチェ村」一本に絞って復興作業を進めようと、
取り合えずパトネちゃんが出かける前にある程度のお金を持たせて、
バイクに持てるだけのビニールシートを持って行くよう調査依頼した後に
「しまった!まだ余震があり危険な仕事を頼んでしまった」と後悔したが遅かった。
彼はバイクで直ぐに出かけた。
自分でもかなり「焦って」いた事が分かった事例でもある。
これだけの大きな地震は、ネパールとしても経験が無いことであった。

カトマンドウの郵便局近くにそびえ立っていた「カトマンドウタワー」も
バクタプルの「ニャタポラ寺院」も「高い古い建物は全て倒壊」したのである。
世界遺産の多くは何百年と経っているため、
老朽化や劣化が著しく修復には何十年と言う時間が掛かったが、もう無い。
残念の一言である。

まだ何人の犠牲者が出たのさえ明確な数字が出されていない。
分からないのである。
調査さえ出来ていない。
銀杏旅館にも警察が調査に来て、被害状況の確認にきたが
一軒一軒を尋ねて山の上まであるシンドパルチョークの家を調査するには数ヶ月を必要とする。
日本では考えられない状況が、ここネパールなのである。

これを書いている今も「余震」の最中である。
決して気持ちのいいものではない。
こんな環境では(電気・水・ネットの無い)生活するだけでも大変で、物価も急激に値上がりしている。
特に生鮮野菜などは、普段の3倍近い。
頭の整理が出来ていないが、取り合えずの一報として報告し現状把握が出来てから「どうする」を決めたい。

4月29日朝、既に昨日ラムチェ村に帰っているミナの後を追ってラムチェ村の実態調査に出かけた結果
画像の通りで悲惨な状況であった。

添付写真はバラビシへ行く途中の状況とバラビシからラムチェ村に向かう途中の村の状況とラムチェ村の実態である。
途中のスクテの画像に見覚えのある方もあろう。
日本ではここネパールの災害ニュースが流れた後、
直ぐに復興支援の「募金活動」が始まり、いくら感謝してもしきれない。
井戸の外から&ネパールの習慣は割愛させていただきたい。



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では次回「ネパール通信」まで。



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  1. 2015/05/03(日) 10:06:03|
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プロフィール

筋田 雅則

Author:筋田 雅則
20代半ば、岐阜県山岳連盟の
カシミール遠征隊へ招聘
その帰り、初めてネパールへ立ち寄る。

その後、ネパールの同宿の山仲間と、
「学校づくり」を開始し約30建設
ネパール支援を何十年も繰り返し、
定年退職後、ネパールへ移住。

現在はカトマンドゥ在住、
ラムチェ村を中心にボランティア活動を行う。

ブログでは、ネパールでの
ボランティア活動報告を通して
生きた現地情報をお伝えしていきます。

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