ネパール通信

ネパールでのボランティア活動報告を通して、生きた現地情報をお伝えします。

トゥロパカル村での滞在を終えて(Ⅱ)・・・

6月29日(水)天気:曇り 気温:24℃ 湿度:64%


今回は前回に引き続いて、「恵子さん」のトゥロパカル村を掲載する。


村には外国人など滅多に訪れないためか、子供たちにとっては私の存在そのものが珍しいもののようだった。
恥ずかしいけれど私に近づきたい、話しかけたいという子供たちの好奇心のおかげもあって、
基本的に皆熱心に授業を受けてくれた上に、授業時間以外でも習ったばかりの日本語を使うようになってくれた。

また、先生方も子供たち以上に熱心で、授業後に私をつかまえては一生懸命質問し、勉強していた。
日本語のみならず、英語やパソコンの使い方など、先生自身が発展途上の状態のため、
尋ねたいことが山のようにあったようで、すっかり頼られてしまった。
皆20代、30代の若い先生方であった。

私もネパール語を学びたく、お互いに教えあった。
教師の経験もなければネパール語も片言しか話せない
私の授業を、先生方が通訳してくれ、サポートしてくれた。

ネパール語と英語と日本語がミックスした、回りくどくも面白い授業風景であったと我ながら思う。
おかげさまで私のネパール語も3週間でだいぶ上達した。

ノートや鉛筆を持たずに学校に来る子やしょっちゅう欠席する子がいたり、
ちょっと難しい文だとなかなか覚えられなかったり、授業中にほかごとをして遊び始めてしまったりで、
教える立場としては挫折感を覚えたこともあった。

しかし冷静に考えたら彼らは6歳から12歳くらいのまだ小さな子供たち。
自分がその年齢の頃など、まだ英語の授業すら受けていない状態であった。
目の前の子供たちは幼い頃から公用語であるネパール語と自分たちの民族の言葉の2言語を操り、
3歳頃から英語を習い、さらに今このような低年齢で第2の外国語を勉強している。
そう考えたら尊敬の念すら芽生えてしまった。


恵子さんのカメラ 005
学校での風景



村では学校に通う児童以外にも、宿泊先の家族をはじめ多くの人々と交流を持つことができた。
なかでも、私が担当していたクラス3の6歳の男児ニラジの妹で、
まだ学校に通い始めていない3歳のニキータが、なぜか私になついた。

あるときニキータが私に「ございます」「ございます」と何度も話しかけてきた。(!?)
意味もわからず日本語を使うニキータをかわいいなぁと思うと同時に、このことは私にとってとても大きなことであった。

それが「おはようございます」のかけらなのか「ありがとうございます」のかけらなのかはわからなかったが、
これはすなわちニラジが家に帰ってから習ったばかりの日本語を家族に披露したことの証明だったからである。

得意げに家族に日本語を教えるニラジの姿を一人勝手に想像し、
中途半端かもしれないけど教えにきてよかったな、と心底思った。


恵子さんのカメラ 001
3歳のニキータ



こんな私の山村生活は、滞在期限日まで4日を残して突如終わりを迎えた。
当初6月22日からの予定だった雨期休暇の開始が1週間早まったのである。

雨期になると農作業が忙しくなり、子供たちも授業どころではなく働かねばならないそうだ。
事実、この数日欠席する子供が非常に多くなっていた。
特にクラス4、5の労働力になる年齢の子供たちの欠席は著しかった。

これが、ネパールの山村の現実なのである。
残り4日で教えようと計画していた内容は未消化のまま、少し複雑な気持ちで村を出ることになった。

「こんにちは」「ありがとう」などの基本的な挨拶、自己紹介と家族についての説明、
1から100までの数え方、その他諸々、私なりに実用度の高そうな内容を優先しながら教えた3週間。

年齢の低いクラスでは内容を変えたり絵や写真を使って教えたり、手探りの授業であった。
子供たちには少し難しすぎる内容だったかもしれないと、少し反省もある。

1ヶ月半後に雨期休暇が明けたとき、はたしてどれだけのことを覚えてくれているだろうか。
ノートを見なければ思い出せないことがほとんどかもしれない。
ノート自体がどこかへ行ってしまっているかも・・・?!

それでも次回筋田さんや他の日本人が村を訪れたとき、
誰か一人でも日本語で挨拶してくれる子供がいたら、万々歳である。
そして彼らが大きくなったとき「いつだったか日本語を学んだことがあったなぁ」と、
少しだけでも記憶に残ってくれたら幸せと、そう思っている。


雨の合間と雨が降っている様子 007我が家から見た「カトマンドウに雨が降っている様子」




ネパールの習慣:食事は「お腹がすいた時が「食べる時」学校や職場以外では
ネパール人の食事時間は「ばらばら」である。
食べるものが常にある日本とは違い、「ある時に食べる」と言う習慣が「身」についているためである。
ラムチェ村のミナや弟は「果物」など村では殆ど食べた事がなく、我が家に来て初めてである。
そんな彼らは、目に付いた「果物」はすぐに食べる。
食事時間が迫っていようが食べる。
「今食べると夕食が食べられないよ」と言っても食べる。
結果夕食は食べられず、深夜「お腹がすいた」と言ってキッチンに入り、
残った「ごはん」とおかずをキッチンの中で「しゃがんで」食べる。
これも我が家に居る間に早く直さなければと焦るが、なかなか直らないのが現実である。




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  1. 2011/06/30(木) 17:53:27|
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トゥロパカル村での滞在を終えて(Ⅰ)・・・

6月20日(月)天気:曇り後晴れ 気温:25℃ 湿度:56%


今回は5月29日から3週間の予定でトゥロパカル村へ「日本語の教師」に行っていただいた
川端恵子さんの教師体験記を掲載したい。



今回、5ヶ月の日程でネパールを旅行中だった私は、縁あって筋田さんと出会い、トゥロパカル村に3週間日本語を教えに行くという予想外の機会に恵まれた。

雨期に片足を突っ込んだ5月29日、集中豪雨とヒルの吸血という大歓迎を受けて村に到着した私は、翌日から
早々に日本語の授業を開始することとなった。

学校はトゥロパカル村の中のバガンという地域にある全校児童50名弱の小さな学校であった。
下は3歳から上は12歳までの全5クラス。


恵子さんのカメラ 004
トゥロパカル村の子供たち


日本の学校のように1つのクラスの児童が皆同じ年齢ということはなく、入学する年齢も卒業する年齢も人それぞれである。
私はこのうちの上位3クラスを教えることになった。

授業1コマは45分間と一応決まってはいるものの、早く終わろうが延長しようが誰も気にする者はいない。
先生方の教室移動もかなり適当で、45分という時間に縛られることなく、なんとなく自分なりに区切りのついた
ところで授業を終えて次の授業の教室へ移動する。

朝10時15分に始業し(といっても先生方が職員室から教室に移動するのが10時半過ぎ・・・)、
立て続けに4コマ。コマとコマの間のトイレ休憩などはない。
行きたくなったら先生に一言断って授業中に行く。
4コマ終わったあと1時15分から2時までカジャ(おやつ。1日2食のネパールではたいていの人が午後に一度
カジャを食べる。)休憩。

学校のオーナーの70歳前後であろう老夫婦が毎日カジャを準備してくれていた。
ジャガイモや豆のタルカリ(カレー味のおかず)、チャウチャウ(ネパールのインスタントラーメン。
これまたカレー味。)、セルローティという米粉の揚げパンなど、かなり充実した質と量だった。

毎日50人分こしらえるだけでもかなりの手間である。
給食の時間のようで楽しいひと時であった。
ちなみに、子供たちは使った食器を自分たちで洗ってキッチンに返却しに来るよう教育されていた。

さて、前置きが長くなってしまったが、私は今回3週間というごく短い期間で日本語の‘に‘の字も知らない子供たちにこれを教えるにあたり、日本語会話‘を教えるというスタンスで授業をしようと決めた。

つまり、文法やライティング中心の内容でなくスピーキングを主とした内容である。
いずれにしても日本語の全てを教えることは不可能。
どうせならば活きた、使える言葉を教えたいという思いがあったからである。
そしてその方が学ぶ側もきっと楽しいということを私自身も知っていたからである。

昔、中学生時代の英語の授業で、’This is a pen.’などという日常生活でいつ使うの?というような紙の
上のみの英文や文法ばかりの授業に飽き飽きしていた折、アメリカ人の先生が英会話を教えに学校へやってきた。

たった数日だったが、挨拶や簡単な日常会話をネイティブの発音で教えてくれ、
また間違ってもいいからどんどん話すように促してくれた。
楽しかった。

そして習ったばかりの言葉を使って短いながらも先生と会話ができたときはうれしくて仕方なかった。
ネパールの子供たちにもそんな気分を味わってほしいと思ったのである。

そんなわけで、私の授業では漢字はもちろんひらがなやカタカナも一切使わなかった。

’KON NICHI WA‘というように、既に子供たちが読むことのできるアルファベット(ローマ字)を使って全ての文章を表し、
発音を教え、何度も復唱してもらい、ひたすら話し続けてもらった。

毎回授業の始めに、前回の授業の内容を覚えているかどうかを復習がてらチェックしていたのだが、これがなかなか難しく、
1日経つと子供たちの記憶がおぼろげになっていることがほとんどであった。

しかし、根気強く「日本語の朝の挨拶はなんて言う?」などと毎日毎日尋ねることで「おはようございます!」と力強く答えが返ってくるようになり、さらには私が教室に入ると立ち上がって「おはようございます」こんにちは」と時間帯に合わせて挨拶してくれるようになった。

授業後には帰宅しようとする私の背中に向かって、遠くから恥ずかしそうに「さようなら」と言ってくれるようになった。
笑顔で手を振って「さようなら」と返事をしながら、心のでガッツポーズした。

次回「ネパール通信」に続く・・・・・
川端恵子



恵子さんのカメラ 002
トゥロパカル村での授業風景



ネパールの習慣:毎朝顔を洗う時、両手に水を受けうつむいたまま両手の水を顔にかける。
このとき周りに一杯水が飛び散る。
洗面台の周りは水浸しとなるが、彼らは洗面台に飛び散った水滴を拭くことはない。
我が家でも同様で、何度も「顔の洗い方」を教えたが辛抱強く教える以外にない。




  1. 2011/06/22(水) 09:24:13|
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イミグレーションは「タカリ」の巣・・・

6月10日(金) 天気:快晴 気温:20℃ 湿度:68%
(ただし下界は曇り)


今回はネパールにおけるビジネスビザの更新における「脅し・騙し」の数々をお知らせしたい。

一般の旅行者は、ここでの滞在は年間最大でも5ヶ月までとされ、それ以上滞在する場合には
「ビジネスビザ・学生ビザ」などを取得しなければならない。
この取得が、なかなか大変である。

学生ビザの場合には、銀行の預金残高証明(在ネパールの銀行口座)と学費半年分で約6万円ほど
(現在はもう少し高くなっている)を振り込み、そのエビデンスを入学願書に添付して申請に行くのであるが、
学校がビザの申請書を出してくれても、最終的にはイミグレーションに行く事になる。

ビジネスビザの場合にはもっと手間で、書類を揃えるだけで50日ほど掛り、
これをエージェントに依頼すると膨大な金額を請求される。
トゥーリストビザでも分らない人(カモ)にとっては「めちゃくちゃ」な金額を請求され、
先日もパスポートのビザシールに押すイミグレーションの「印」だけで5万Rsもの大金を支払っている
外国人を見かけた。

昨年に引き続き、今回もミナとパトネちゃんが取得作業に掛かってくれ、
「銀杏旅館」の営業実態を証明する書類の更新や旅館の所得に対する納税証明書など、
さらに土地の税金支払い証明書などを添付し、最後に旅館の写真10枚ほどを付けて提出。

ここで断っておくが、旅館では一切の所得はない。
むしろ持ち出しばかりである。

しかし「あるように」しないと役人が指導調査に来て、如何に営業しているのかを調べに来る事となり、
最悪営業停止処分もありうる。

これらの書類を作るのに、1枚あたり1000Rsのお金が必要で、毎年20枚ほどの書類を更新しているため、
来年からは自分で作る工夫をしている。

書類を作って各部署のサインをもらって回る際、毎回「袖の下」が必要で、
もし支払わなかったら何時までたっても書類が次のセクションに回されないため、
何週間も余分に掛かった末に書類に「難癖」を付けられ再度新たな書類を作る結果となり、
お金を吸い取られるようになっている。

サインをもらうセクションは15~17箇所で一箇所あたり最低でも700Rs(今回の場合)を支払った。
結局15000Rsほどの「袖の下」の結果、最後の書類(ビジネスビザ取得許可証)を手に、
いよいよ最後のイミグレーションである。

ここは新しく移転した場所で「分りにくい」所に移転したため、1時間ほど探し回ってやっと見つけた。
この3年間で3回も移転している。

グランドフロアーはツーリスト専用の窓口で、多くの人々が集まっている。
申請用紙を記載している人に、ここのスタッフ?が「早く取得したければ3000Rsを出せば今すぐビザを貰って来てやる」と話しかけているのを耳にした。

彼は「No」と答え自分でツーリストビザの更新を申請したが、「2日後来い」との答えに憤慨して
「なぜ今でないのか?」と係官に質問したが役人は「知らん顔」で済ましている。
仕方なく2日後に再度来ることにして帰って行った。

さらに中国人のツーリストは1万Rsを出し、今すぐビザを作って来いと指示。
ものの10分で手続きを完了し更新ビザを取得し帰って行った。

以前はこんなに高額な「袖の下」ではなかったと記憶している。
精々500~1000Rs止まりで出来たはずである。

私のビジネスビザであるが、事務所は1階と2階にあり、ここでも最低5箇所のサインを貰う必用があるため、
パトネちゃんに1箇所250Rs程度なら「袖の下」(バックシーシー)もOKだと伝え走り回ってもらい、
結局1500Rsで全てのサインは完了した。(パトネちゃんはミナの弟)

1年間のビザ代300ドル(22000Rs)を支払いビザシールを貼ってもらい
最終スタンプ(イミグレーションのスタンプ)を押してもらう段になりパトネちゃんが飛んできた。

5000Rsを出せと言われて飛んできたのである。
「それが出来ないならば2日後に来い」との事である。
「お父さん、ここでは250Rsではどうしても出来ない、前の人は銀行から持って来た札束の5万Rsを支払っていた」
と伝えに来た。

書類の不備があればこの金額が増えて行くことになるが、
申請者は早く取得したいばかりに大金を支払うこととなる。
私は全く不備のない書類だから、「1000RsならOK」と答えて彼を返したが、
彼は「お父さん、今日は止めましょう」と言って、その訳を話してくれた。

申請当日にビザをもらうのは「とっても高い」お金が必要であり、
「お父さんのビジネスビザはまだ有効期間が2週間もあるので、明後日来ても大丈夫」との事。
パトネちゃん曰く「もし明後日にも同じ事を言ったら警察を連れて来るので心配ない」

結局、2日後に行き、スタンプ一つ押してもらうのに2時間も待って全て終了した。
毎年の行事?とは言えかなり疲れるのは否めない。






葬列と太郎 003バネバネで出会った「葬列」





ネパールの習慣: 今回は習慣ではなく、我が家のアイドルである「太郎」ちゃんを紹介したい。
朝晩の一日2回、自由に森の中を走り回って仲間の犬と一緒に遊び約2時間後には自分で帰って来る。
もし、1階のドアが開いていると私のパソコンの後ろまで来て「帰って来ました」と言わんばかりの顔で「きゅ~ん」と鳴いている。

葬列と太郎 006銀杏旅館のアイドル 「太郎」






  1. 2011/06/11(土) 09:41:09|
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日本語教師をトゥロパカルへ・・

日本語教師をトゥロパカルへ 007子供たちに「挨拶」する恵子さん


5月31日(火)天気:曇りのち快晴 気温:21℃ 湿度:65%


今回は、雨期に入った直後のトゥロパカル村へ「日本語教師」(恵子さん)を送った報告をしたい。

5月29日(日)午前7時40分にサンガの銀杏旅館を出発、バネパでバスを乗り継ぎ、
タトパニ行きのバスに乗り込む。
ミナは例によって「車酔い」で始終「ふらふら」の状態であった。
約2時間半後カリチョウークに着き下車。

ここで何時ものようにブランチ(朝昼食)を食べ(ダルバート)、それが終わると、私が荷物の番をしてミナと恵子さんが、今回お世話になるミナの親戚の家に持っていく「野菜」を購入。

キューリ・トマト・マンゴー・とうがらし・キャベツ・なすび・インゲンなどを仕入れ、「ジリ行き」のバスに乗り込む。

ここからは一気に400m近く高度を上げるため、バスは「あえぎながら」ゆっくり登って行く。
30分後、目的のトゥロパカルへ到着。

下車して荷物を点検していたが一つの荷物(野菜の一部)をバスに置き忘れた事が分った。
どうしようもない。

この時期午後になると定期的に降る雨を心配して、早々に出発を促すも「ゆっくりお茶を飲んでから」と約1時間ほど休憩してしまい、ミナも荷物を忘れた事を気にしてなかなか動こうとしなかった。
それでも、私が出発すると渋々付いてきた。

ここから目的の学校までは徒歩で約1時間半の距離である。
途中、なかなか来ないミナと恵子さんを休憩しながら確認しては先に足を進めた。

歩き始めて50分位の所から「ポツポツと雨」が降り出し、5分もすると「土砂降り」の雨となった。
道は濁った川になり、山側からは幾つもの「滝」が出来た。
普段は簡単に渡渉出来る浅瀬も、ひざまでの濁流が流れていた。

傘は恵子さんが持って来た小さな傘が1本だけで3人は無理。
私の小さな荷物はミナが持ってくれたので、残りの道を私が走り「助っ人」を呼んでくるのが懸命と考え
「私一人傘なし」で先を急いだ。


日本語教師をトゥロパカルへ 013「豪雨」の村


約20分後(午後2時ごろ)学校の近くの御茶屋に到着。
「二人の女性」がここへ向かっている。

傘が無いので誰か迎えに行って欲しい旨を伝え、一人の若者が出発した。
私はパンツ一つになり、雨で濡れた衣類を「絞って」再び着た。

約50分後ミナと恵子さんが到着。
二人とも「びしょぬれ」の状態で「暖かいお茶」を飲み、ビスケットを口にして一息ついたが
寒さは堪えきれないので、雨が上がったのを機にミナの親戚の家に急いだ。

お茶屋から徒歩で10分ほどの、今晩の宿泊先である「ミナの親戚」の家に到着、直ぐに荷物を「干し」、
濡れて冷えた身体を太陽にあてて「暖めた」。

この日の雨は1時間半ほどで止んだ。

昨年は、私とミナだけでこの時期トゥロパカルへ出向いたが、
水量が多く「渡渉」を断念して引き上げた経験がある。

夕食までの時間を家の畑に一杯なっている「プラム」の実を取って食べたり、近所の子供が遊びに来たりして
身体を暖めて一息つくころには、「夕食」の準備が出来て「空腹」を満たしてくれる旨い「ダルバート」にありついた。

夜も7時半を過ぎたころ、庭には「一杯の蛍」が乱舞。
しばし「心の休憩」を取る。



日本語教師をトゥロパカルへ 001ミナの親戚の家での朝食



翌朝、朝食の(ダルバート)を頂き、学校へ向かう。
今日は新たな10人の子供に支援物資を渡すのと「自立支援」の方法を話し合う予定であった。

先生と相談の結果、支援物資と「自立支援」の話し合いはダサイン後にした方がいいとの結論になり
(後3週間で学校は長い休み:農繁期休み・ダサイン・テゥハール休暇になる)

恵子さんは「日本語教師」として3週間ここに滞在し、日本語を教える。
期間的に3週間では「あいうえお」からやっていたのでは話せない事から
「挨拶・会話」を主に各クラスに教える事にした。

その後10時ごろ、私とミナはバス停までの帰路を急いだ。
しかし、バス停の手前10分くらいの所で急に雷雨が来て、急いで民家に身を寄せた。

1時間後、雨が小降りになったのを見計らいバス停に急いだ。

今日は少し早く「雷雨」が来たようである。
途中バネパで下車し、軽い食事をしてサンガに戻った。

3週間後が楽しみである。




日本語教師をトゥロパカルへ 005トゥロパカル村の学校の先生と「日本語教師」の扱い方法を相談



ネパールの習慣: 以前にもお伝えしたが、ここネパールでは「特に山村」では一夫多妻が多く見られる。
目的は子供を沢山作ることにある。
なぜなら、「子供は労働力」だからである。
従って兄弟姉妹でも、顔かたちが全く違い我々外国人からすれば「不可思議この上ない」。
一つ屋根の下に、二人の奥さんが同居するのは決してめずらしくもない。





  1. 2011/06/04(土) 09:09:16|
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プロフィール

筋田 雅則

Author:筋田 雅則
20代半ば、岐阜県山岳連盟の
カシミール遠征隊へ招聘
その帰り、初めてネパールへ立ち寄る。

その後、ネパールの同宿の山仲間と、
「学校づくり」を開始し約30建設
ネパール支援を何十年も繰り返し、
定年退職後、ネパールへ移住。

現在はカトマンドゥ在住、
ラムチェ村を中心にボランティア活動を行う。

ブログでは、ネパールでの
ボランティア活動報告を通して
生きた現地情報をお伝えしていきます。

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