ネパール通信

ネパールでのボランティア活動報告を通して、生きた現地情報をお伝えします。

一人の力の、何と小さなことか

8月21日(日)天気:晴れ 気温:22℃ 湿度:62%

今回は、雨期の真っ只中にあってモデルハウスの建設状況もはかばかしくなく、「銀杏日本語学校の設立」に集中していた。

しかし、はじめての仕事とはこんなに分からないものかと痛感した次第である。

学校の申請の前に会場調査や先生の確保、誰に問う監督をお願い出来るのか?
などなど、素人の私が一人で出来る仕事ではない。

JICAの古い友人であるソシルバッタチャンに大まかなアドバイスを受け、
多くの人脈を持つあやさん「女性ながら一人で服飾の仕事をこなしている方」にお願いして人材の確保に努めた。

なぜなら、今までの私の人脈とは全く異なる人間関係が必要になったからである。

しかし、いざとなるとなかなか思うような人材にはありつけず現在もなお捜索中である。

最初は教室と教科書・先生が揃えば何時でも学校が出来るだろうと、簡単な気持ちであったが、
やりたい、やりたいと思っていたため、以前から調べては来たが本格的に必要な事を見聞きしたのは今回がはじめてである。

とにかく、膨大な仕事量がある。

会場設定一つをとっても、集客の良い場所となると何処がいいのか?

日本でも、10m離れた全く同じコンビニでもちょっとした事が原因で、
一方にはお客が来ないため閉店に追い込まれる事は良く耳にする。

それと同じで人に聞いても教えてくれないし、分からないのである。

つまり、人間心理の部分でもある。

また、実務でも日本人なら誰でも出来るであろうと思ってきた日本語であるが、
いざ教えるとなると、全く違う要素が必要になって来るから不思議である。

人に分かってもらう事の難しさは、通常の仕事でも何時も起こっていることであるが、「たかが日本語」されど日本語である。

日本語検定の2級や1級など、今の私にはとてもクリヤー出来そうにもない。

日本人さえもが出来ない日本語検定試験にパスしているネパール女性がかなり居る事にも驚いている。

さて話が、本題かそれたが今回の学校設立については多くの日本の方にご協力をいただいている、本当にありがたいことである。

何も知らないと言う事は「恐ろしい」ことであり、先の苦労が全く見えていないのである。

行き当たりばったり、で危険予知が全くできないのである。

俗に言う「極楽トンボ」なのである。

そんな時は、教えていただく人を探してもらうのである。人脈のある方に・・・

それぞれの専門家?が居て、小さい頃から勉強にはとんと関心のなかったと言うか
劣等性の「わんぱく坊主の私」にはまるっきり、闇の世界の仕事でしかなかった。

しかし、知らない強みとでも言うのか少しづつ解き明かして、
やがては解決してゆきそうな仕事ぶりに、周りが不安で手を差し伸べていただけるのである。

本当に心から感謝する毎日である。

開校目標を10月はじめに置き、それまでにやはらねばならない仕事を列記して潰す作業が、知らないだけに面白いから不思議。

そんな事を言ってては、援助して下さっているみなさんに申し訳がないが、本当の気持ちである。

「望めば道は自ずから開かれん!」誰かの言葉だろうが、本当である。

現役時代は「俺が俺が」で突き進んで来た時代であったが、今は「私は何も知らない」ただひたすら教えを請う姿勢だけである。

一人は何と小さな力だろう、しかし周りの協力を得た時には「こんな事が出来た」と思えるほどの大きな仕事ができるのである。

今回ほどこれを痛切に感じた事はない。

一人で出来なければ、周りに「私は出来ない」教えて下さい。と言うことである。素直になれば道は開かれる。

まだ道半ばであるが、多くの人の力で9月末には開校に持ち込みたい。

人間関係は人生の「色彩:いろどり」である。

人間一人では生きてはいけない、人生の「彩り」は如何に多くの方々と接触をもち
力を貸していただいたり、助言を頂いたりして来た結果であろうと考える。

添付写真は先般日本で働くネパールの青年お二人が子供の衣類を届けてくださった時のものとフェワレイクのサンライズである



井戸の外からとネパールの習慣は当面割愛させていただきたい。





では次回「ネパール通信」まで



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フェワレイクのサンライズ
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日本で働くネパールの青年(子供服を持ってきてくださった際に。)
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  1. 2016/08/21(日) 19:05:44|
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雨期のネパールへ

8月11日(木)天気:曇り 気温:24℃ 湿度:64%


はじめに、長い間「この通信」が配信出来なかった事をお詫びしたい。

銀杏旅館の修復作業をはじめ、ラムチェ村でのモデルハウスの建設工事で「留守中の段取り」に追われ、
日本滞在時にも多くの調整と対話が山積し、通信が今になった。

さて、日本滞在で最重要課題であった「岐阜ネパール会」としてのモデルハウスの建設に関わる建設手順と
その目的の確認は、安曇野にて安倍先生との間で極めて綿密に行う事が出来まずは一歩前進であった。
小学校の再建もあるが、まずはモデルハウスの完成を急ぎたい。

もう一つの重要課題である「ネパールでの日本語学校」の建設は、
岐阜ネパール会としてではなく、「銀杏旅館のすじた」としての仕事と捕らえて若い彼らから、
搾取の無い「日本で働きながら日本語を学ぶために行く、
ネパールの日本語学校」の建設に着手すべく調整に時間を掛けた結果、
極めて具体的に「実施計画」が進んだ事は幸いであった。

年内にはご協力いただいた鈴鹿の会社(社名は伏せる)の方も
ネパールに学校設置場所や運営状況の視察に来られる予定である。
後はネパールマインドの中で如何に計画を忠実に実行出来るかに掛かっているが、
これはやらないと分からないが一歩づつ前進して予定期日には完結したい。

この二つの大きな仕事に加えて、今年から新たに支援することになった
ラムチェ村の子ども27人の対応も9月にはスタートする。
従って、学用品からカバン・スリッパなどの準備も今から始める。

銀杏旅館の修復も進んでいて、ミナやパトネさらにラスミとアシスに加え
サンテーちゃん(言葉の障害を持った女の子)で全てのマネージメントをやっている。

今回、岐阜の家で5年前に購入して読まずに置いておいた本「三万年の死の教え」中澤真一書の一部を紹介し、
現在を生き抜く糧としていただければ幸いである。

老僧の独白「人は百年ももたないうちに死んでしまう。長寿を得たものも、確実に死んでいく。
形のあるものは滅びをむかえ、集まったものは散り散りになっていく。空に生まれ、空に死んでいく。
人は皆、私もあなたも、この現象世界の中のどこにも、羽を休める足場をみいだすことのできないまま、
宙に舞いつづける蜂のようなものだ。(1)

財産も、家族も肉親の愛情も、死のときにはなんの役にもたたない。
あなたはそれをすべて捨てて旅立つのだ。だから、わたしたちが生
きているうちにすべきことは自分の心を成熟にむかわせることだけなのだ。(2)

そのことの重要さが、誰にも訪れる死の時にわかる。(3)


(1)はじまりも終わりもなく、土台も足場も根拠もない「空」の中に単独者として、
たった一人で有限の生命を生きる者が人間なのだ、という認識が徹底して教えられている。

(2)人生の意味をチベット仏教ではこういう「空」観にもとづいて考えている。

(3)人はすべて一人で死んでいく。そして自分いうものが、「空」にあらわれた一人ぼっちの単独者であることを、
死はすべての人に教えるのだ。



来週からは、いよいよスタートである。体調も良し、ただ天気が気がかりなだけである。
なぜなら、道が「どろどろ」になるため、仕事が進まないばかりか極めて重労働になる。




換金レート
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銀杏旅館から見た曇りの景色
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  1. 2016/08/15(月) 13:56:03|
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暑中お見舞い申し上げます。

記録的な猛暑にあえぐ日本列島!

ここネパールでは連日に雨に気温も「ぐっと」下がり、22℃と極めて過ごしやすい。
銀杏旅館の屋上に降った「雨」は全て大きな水タンクに収まり、水不足も何のそのである。

今回の「暑中お見舞い」がネパールから送る最後の「ネパール通信」である。

今朝の出来事である「バスの事故」は私がカトマンドウへ買出しに出かけた時に起こった。
添付写真のように前輪左側の車輪が側溝へはまってしまい、急遽バスを乗り換えなければならなくなった。
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勿論料金は事故発生場所までの料金を支払い(10ルピー)次のバスに乗ってカトマンドウへ向かった。


添付は世界の名峰である「ダウラギリ」である。
雪煙をあげるダウ






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  1. 2016/07/05(火) 15:01:32|
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ここに定着して・・・13年

6月28日(火)天気:星の見えない夜 気温:26℃ 湿度70%


今回は、活動をはじめて丁度いい区切りであり、過去13年間を振り返ってみた。



《はじめに》

長い間(現役時代)の望みでもあった、ネパール移住を決断して13年はまるで「嵐」のように過ぎ去って行った。
ここに来た当初、何処から手を付けたらいいのかも分からず、漠然と村々を回っていたが、目的ははっきりしていた。

「山岳民族」の子ども達、特に小学生を対象に「学校へ通ってもらう」
説得に回ろうと考えたのは、過去30年間に体験したネパールの人々の考え方から、
必ず学校へ通って居ない子供たちが居ると考え村々を回った。

しかし、単に回っているだけでは学校へ通っているか居ないかは見えない。
やはり、村長に直接話を聞く事が先決であると考え、どうすれば何処かの村へ紹介してもらえるのかを考えていた。



《アシスタントの確保とスリーサルソティー小中学校》2004年12月~2009年3月

そんな時、初めて行ったラムチェ村で「ミナ」に出会い、彼女の知識に驚いた。
彼女は、この近郊の村々を回って「国勢調査」のような政府の仕事を学校から推薦されてやっていたのである。

正に今の私の欲しい情報を、彼女が全て握っていたのである。
遥か遠くの村の様子から、村の貧困度合いまで詳しく知っていた。
私は、下手な英語でこの子にアシスタントになって欲しいとお願いし、ご両親にもお願いし了解を得たが、
何せネパール語とタマン語と英語しか話せない。

そんな折、私がラムチェ村の支援活動に来ている時、次回来る時はカトマンドウの家が留守になり、
心配であると話した(下手な英語で)のを聞いていた「ミナ」が「私が留守番に行って来る」と言って、
私がラムチェ村に出発する前にカトマンドウの家に来てくれた。

初めてのカトマンドウでバスも初めてで、私の家の住所も名詞に書かれた地名を頼りに聞きながら尋ねて来たそうである。
凄い!
友人の女の子と二人で、バスに「酔いながら」必死で辿り着いた時には
生きた感じはなく「へろへろ」状態であった事を今でも覚えている。

しかし英語しか二人の会話は出来ないため、四苦八苦の会話であった。
やはり、彼女に「日本語」を覚えてもらおうと考え、ミナの相談したら即OKとの事。

この日から、教える側も教えられるミナも必死であった。
この間、(日本語を覚える間)スリーサルソティーの学校は休み、日本語と私のアシスタントの特訓であった。(約10ヶ月)
そのため彼女は通常の年齢よりも合計で2年ほど遅れて10年生を終えた事になる。

しかし、日本語の上達は早く10ヶ月後には通常の生活用語は殆ど話せるようになっていたのである。
(リスニング&スピーキングとひらがなカタカナを習得)

こうして一時元のスリーサルソティーの学校に戻し、10年生が終了するとネパールの国家試験であるSLCの受験準備である。
バラビシに「編み物教室」を開設しラムチェ村の女性に編み物を覚えていただき、
少しでも現金収入になればと考え、夜はミナの住居に昼間は教室にと利用して実施した。

勿論、この時の編み物教師も二人の女性を半年掛けて養成し、その間の宿と食事は我が家で一緒の生活であった。
一人の女性は子どもを抱えての研修であったが、お陰でお母さんまで育児に付いて来て、
一挙に4人の女性の面倒を見ることになった。

一通り、編み物研修が終るのと編み物教室の開講とを調整しながら進めて
やっとSLC受験準備の日程と開校式を一緒にする事が出来た。
この時期にカトマンドウの借家からサンガに移転を決断。
忙しい毎日であった。

こうした忙しい中でも、ラムチェ村への往復は欠かさず続けていて隔週の間隔で通っていた。
でないと、子どもがたちが学校へ通うのを止めてしまうからである。

ラムチェ村での3年半ほどの活動中、75人ほどの子供たちに学校へ通ってもらう事ができた。
学用品の他に、試験費用や普段着などの配布も欠かさず行った。
学校の英語の教師も3~4ヶ月間ほど派遣、村のクリニックに住み学校へ通ってもらった。
名前は森本雄志君と言って日本人のご両親がアメリカに住み彼が生まれ、アジアを回って居た時に私に会った。

こうして3年半ほどの時は瞬く間に過ぎ、ラムチェ村を去る時が来た。
当初から一つの村の学校で、3~4年を支援活動子ども達が「学校に定着」したころ、次の学校へ移ろうと考えていたのである。

校長先生や一般の先生にも「残って欲しい旨」伝えられたが、ここだけが貧しい村ではないと考え、後ろ髪を引かれる思いで去る。



トゥロパカルの小学校》2009年4月~2012年3月

この時、既に次の学校から支援要請があり、ミナに確認したら「お父さん、そこの村は私のおじさんの奥さんの村だよ」と言う。
村の名前はトゥロパカル村と言って、エベレスト街道から南へ2時間ばかり下った所にある小さな村であった。
ここでも、70人ほどの子供たちに学校へ通っていただき、今度は日本語の教師を派遣。
日本の女性で教科書を作る仕事をされている方であった。
3ヶ月を校長先生の家から学校へ通って下さった。

雨期の最中に移動して赴任?、ろくな説明もなしに現地に行って下さった優しい女性で、
村人との会話も練習され日常会話が出来るまでになったおられた。
さらに、この村で編み物を教えて製品を買い取りたいと言う、日本の女性(あやさん)が現れてびっくり。

話を聞くと、カトマンドウなどで発注するとオリジナルの製品が直ぐにコピーされてしまい、
オリジナリティーが無くなってしまうそうである。

私にとっても村人にとっても「ありがたい」事であった。
彼女たちは、約2週間ほど村に滞在して女性たちに特訓し材料や編み棒・鈎針を置いていき
1ヵ月後に来ることを約束し去っていった。

それが、現在までも続いている。(6年以上である)
この村でも3年と言う時間はあっと言う間に過ぎ去り、去る時が来たが仕事は出来たのかと言うと、
大きな仕事は無く、ただトイレの改修と水ラインの工事を行ったに過ぎなかった。



《メールダラの小学校》2012年4月~2016年の現在に至る

この村では学校の校舎を宿泊場所として、多くの日本人に来て頂き運動会や腹話術さらには
学生さんたちによる「国勢調査」も実施してきた。
子どもの数も少なくて42人と今までで一番小さな学校である。

そんな中で学校の修復をして下さいと習志野の女性から依頼され、石積みの校舎をセメントで修復し、
ペイントや絵などを施し完成の式典を待って居た時に「地震発生」である。

山の学校の校庭は狭く、危険なためベルギーの仲間がフェンスを習志野の女性が、
ゲートとトイレ水道と校舎の修復をして下さったが、それが一瞬にして消え去った。

若い村長は少し手直しすれば使える校舎を「全て撤去」してしまい、校舎を修復していた我々に何の連絡もしないまま、
更地になってしまった。

この時の村長の考えは、建物があると新たな支援が受けられないから撤去したと言う。
誰が新たな支援者なのか??

人間の無力感をこの時ほど感じたことは無かった。

現在は、ミナの兄弟5人と弟のお嫁さんと息子(竜馬)も一緒に生活している。
今考えて見ると、最初の3年間ほど苦しい時は無かったように思えてならない。

今は、振り出しに戻りラムチェ村の復興支援と子どもの学費支援に没頭。




今回の「ネパール通信」はアウトルックメールにして添付写真が出来ない?
操作ミス?
現在悪戦苦闘中!、
何方か教えていただける方が居ないでしょうか?
文章だけでご辛抱願いたい。










井戸の外からとネパールの習慣は当面割愛させていただきたい。






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  1. 2016/07/05(火) 14:52:14|
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2016年総括

6月17日(金)天気:晴れ 気温:24℃ 湿度:55%


毎年、この時期に活動の年間総括をさせていただいている。
特に今年は、多くの義援金をいただき、地震の復興支援にあたる動きが主な仕事であった。



「復興支援」
被災地域(ラムチェ村)への救援物資の配布や仮設住宅の建設資材などなど、
移動手段もない状況の中での支援活動は困難を極めた。
しかし、多くの人々の影で仮設住宅は完成、仮設校舎も完成した今、新たな活動へと移行しなければならない。
それは、恒久的な家屋の建設である。

ではなぜ、こんなに建設工事が遅れたのか?
それは、農作業はこの時期を逃すと1年はおろか2年間(種籾の関係から)は確実に食料が不足する事となるため、
仮設住宅より農作業であったのが、遅々として復興が進まなかった要因の一つでもあった。
崩壊した家屋の中から「ひえ・米・麦・とうもろこし」などの種を取り出し、畑や田んぼの仕事に忙しい1年であったと観ている。

先般も、銀杏旅館に来られたゲストにラムチェ村での農作業をお手伝い願ったが、
やっと通常通りの収穫が得られるような体制が整ったと実感した。

昨年の今頃にはチトワンにて自分自身の「癌」の治療にあたっていたこともあり、
苦しかったあの時期を思い出しながらのレポートとなった。



「メールダラでの活動」
さて、昨年8月にネパールに戻り、最初に仕事はメールダラの後始末であった。
学校の校舎の存続を期待しながらの訪問は、若い村長の意と合わず「子どもたちには全く関係のない理由」から
支援活動の撤退を決断するに至った経過は以前の通信でも報告していた通りであったが、
彼らの「欲」と私たちの「思い」との間にはかなり「大きな隔たり」があったようである。

学校の校舎は、地震による被災箇所を修復すれば使用可能であったにも関わらず、
撤去しないと新築する「新たな支援」が受けられないと考える村長との葛藤は
最後まで「埋まらない溝」を残したままで撤退を決断するに至った。
残念の一言である。

この村(メールダラ)を主体的に活動していた学生の団体はと言うと、子どもたちとの関係を断ち切る事が出来ず、
村長の「要求」である「水場」の設置を受ける形で活動を続けているが、
何せ日本に居ての活動では細部に亘る注意が出来ず、かなり困難を極めているようである。

今回の地震で水源の水が出なくなり、生活用水に苦労しているとの情報から学生団体が手がけた支援活動ではあるが、
この仕事は(水の仕事)途中で挫折する事だけは止めたい。
なぜなら、全く無駄なお金の使い方になってしまうからである。

ここネパールで(山村で)水のラインを作る事の「難しさ」はやったものでなければ分からない事である。
何処に水源があるのかの調査から始まって、ボーリングの必要性やラインの長さなど、
さらに「タンク」の設置などなど、数多くの仕事があるが日本に居ては完全な「お任せ」になってしまうため、
完成も何時になるのか、幾らかかるのかも?

何十年と支援活動をしている方々でも「留守にすると」工事が止まったり、とんでもない物が出来たり、
壊されたりする事が常であるのがネパールである。
こんなところでの支援活動に「何処まで耐えられるのか」が試されているのである。

一方、地震でほぼ全壊したミナの部落とミナの家では、最初に仮設住宅(コテージ)の設置から取り掛かったが、
設置場所の設定も極めて難しい。

中には道路の真ん中に設置してあるコテージもあり、何時恒久的家が出来るのか判らないのにである。
幸いミナの家では全壊した家の敷地の瓦礫撤去作業は被災から1年後に整地が完了した。

さらに、ミナの家の立地条件が悪く建設機材を運搬する費用が(人による運搬)かかるため、
お婆さんの敷地(車の入れる道路側の土地)を分けてもらえるよう交渉が続けられてきて、先般やっとその手続きが完了。
ラムチェ村へ運んだ建設機材を小型トラックで運搬している。
この「モデルハウス」は「震度5でも絶対倒れない」構造で建設している。

ただ、一部屋だけの細長い建物では安定感がないため「段々畑」に頑丈な「柱」を建てて2段の畑を1段にしての建設になった。
この構造については、専門の技術者による設計によるもので政府の認可もあり、補助金も獲得出来る構造である。
完成目標は8月末と考えているが、ここはネパール・・・・9月になるかも。



「小学生の支援活動」
ここラムチェ村は10年ほど前に支援活動をやっていた村で、
校長先生や多くの先生方も顔見知りに方が多く「元気だった?」と声を掛けてくれるのが嬉しかった。

10年前にここを去る時の状況が「惜しまれて」次の村へ移動した事が
今回、再び会えた事の喜びも増したのではと考える。

ここの小学生も、今回の地震で両親が亡くなったり、兄弟が亡くなった子どもも居て、
どんな支援が必要なのかを聞き取り調査から始めたが、やはり勉強の出来る環境を作る事が先決との結論に達して、
学校で必要な物を支給し学校へ通ってもらう事を優先的に推進する事とした。
結果、25人の子どもたちの衣類・学費や制服・カバン・文房具などの支援を主体的に行う事とした事は評価したい。



総合的評価として、自分の健康状態もあるが「良」であったと考える。
メールダラの管理人さん家族からは、今も電話があり「何時来てくれる?」との催促もあり、
後ろ髪を引かれながらも難しいのが現実である。





添付写真は、この1年の動きで観てきた様々なショットである。
尚、添付枚数を少なくさせていただいたのは、容量的に配信出来ない方も多く
最小限の枚数になった事をご理解いただきたい。

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では次回「ネパール通信」まで。



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プロフィール

筋田 雅則

Author:筋田 雅則
20代半ば、岐阜県山岳連盟の
カシミール遠征隊へ招聘
その帰り、初めてネパールへ立ち寄る。

その後、ネパールの同宿の山仲間と、
「学校づくり」を開始し約30建設
ネパール支援を何十年も繰り返し、
定年退職後、ネパールへ移住。

現在はカトマンドゥ在住、
ラムチェ村を中心にボランティア活動を行う。

ブログでは、ネパールでの
ボランティア活動報告を通して
生きた現地情報をお伝えしていきます。

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